むかしむかし、人知れずつくっていたHP②
第2回 現代における生と死
私は小さなころから、失うということがとても恐ろしかった。失う、たとえば身近な親戚の死などはもちろん、家出したまま戻ってこない飼い猫や小さな消しゴムでも、私に属しているモノを失うことさえ恐ろしかった。どうしてこんなにも喪失が恐ろしいのだろう?人の死に面した時、よく人は悲しさから泣くが、その泣くという行為の対象は誰だろう(A)と思ったことがある。自分と共通の時間や場を持った人を失うということは、自分自身の何か、その人との思い出やこれから過ごすであろう未来の時間を失うことを悲しんでいるのであって、その対象は自分自身であった(B)。人の死に接したときすべての人が自分を悲しんでいると言い切れるわけではないが、人が亡くなったことを純粋に悲しんでいるばかりではないと気づいた時、死は喪失の一種であり、また失うことが私にもたらす恐ろしさの意味が見えた(C)。
その恐ろしさは誕生までさかのぼる。母親の胎内にいる時、人は絶対の安心安全に包まれている。空腹などの一切の不都合から自由であり、そもそも思考するということさえない。安心安全な母親の胎内からの誕生は、安心な場を失う(D)ということでもある。人は絶対的に何かを欠いた感覚を持って生を受けるのだ。 そして失った安心をもう一度得ようと懸命に何かをするということが生きるということではないのか(E)。よりよき生を生きるということの根っこにある何かを欲するということは欠けた感覚が作り出すものではないのか。母親の胎内に包まれるような絶対的な愛情を欲して人を求め家族をつくり、家族を守るために懸命に働き、心地よい家庭を築きあげてくる。生きることは様々な安心を得られそうなモノたちを自分の周りに集めることでもある(F)。しかしそうやって得られるのは安心感だけである(G)。なぜなら、得たものは喪失の危険性をともにもたらすからである(G)。安心を得ようとして喪失の危険性をともに呼び寄せる、生きるということは矛盾に満ちている。
科学の発達は「神の死」をもたらし、そのために信仰にすがるという思考停止の手段を禁じられてしまった。「おそれることはない」とやさしく諭す絶対者の存在も否定された現代に生きる私は、この生きることの恐ろしさから逃れるすべを自分で考え出さなければならないことになった。厄介なことである。
講評
展開に説得力があり、読ませる作品になっています。まず、Aの部分で、明確な問いが立てられ、Bの部分でその答えが求められています。Bの部分の答えは、一般的には失われた対象に対して悲しんでいるとされるところを「自分自身」に対して、としているところが独自のものになっています。一般通念に抗いつつ自分自身で考える能力を感じます。
続くCからの展開はBの「自分自身」という観点を生かしつつ、自己にとっての喪失の恐ろしさを取り出そうとするものになっており、それまでの展開とスムーズにつながる論述になっています。また、ここから、Dの部分の「安心」というテーマを取り出している点、EやFに示されるように、私たちの生の根本に「安心」を求める欲望が存在ていることが述べられている点は非常に読ませる洞察になっています。さらに、Gの部分では「安心感だけ」という言い方で、「安心」への欲望そのものを問う構成になっており、問いをさらに深める姿勢が感じられ、大変評価できます。
ここまでの展開は完成度の高いものですが、Gの問題の深め方については、いくつか方向性があると思います。本作品の展開に即して言えば、Hの部分にあるように、安心は喪失と裏返しの関係であるというのがここでの中心的主張でありますが、この主張はもう少展開できると思います。たとえば、安心が喪失と表裏一体の関係であるとして、それでも人間は安心を求めてしまうことの意味を考えることができると思います。喪失抜きの安心(絶対の安心)が無い以上、人間はむしろ喪失を恐れることなく、そのつど安心を求めることが大切だと考えることも可能です。
また、最終段落にも関わってくるテーマですが、信仰のような絶対の安心を与えてくれるものがなくなってきた現代社会において、安心とは何なのか、を問うことができると思います。確かに、本作品にあるように、よく考えてみれば、私たちのどんな安心感も喪失の可能性をはらむよるべないものかもしれません。しかし、仮にそうであるとしても、私たちが日常的に経験する安心感は、私たちの生きることを励まし、元気にしてくれるものであることは確かであると思います。信仰のような絶対的なものではないけれども、日常的安心感が私たちの生きることを支えている意義というのは論じてもよいと思います。このあたりを、具体的な例なども含めて論じてみると、さらに読ませる論述となるでしょう。とはいえ、本作品はそれ自体で展開と洞察力に優れたものです。大変評価できます。