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三題噺~キュウリとアートとフォンズ

まずは前段。

常陸太田市生涯学習センター発行のフォンズという情報誌の手伝いをしてかれこれ20年余。回覧板で市報等と一緒に配布されてくるだけだったが、WEBを整備できることになり、バックナンバーがすべてネット上で見られるようになった。

生涯学習センター発行 フォンズ 

WEBでは画像データとしてアップされていて、そのままでは検索に引っかからないため、現在はページを鋭意テキスト化の真っ最中。

8ページ×88号発行済みなので、総ページ数704ページ!いや、途方もないデータアップしないとなぁ…。パソコンの時代だったので、作った原稿は残っているのもだいぶあり、ストック分をやっと全部WEB担当の方にお渡しした(今ここ)。

原稿は、校正されて紙面になるので、その校正をネット上のBNを見ながら修正して上書きして、というなかなか面倒な作業ではある。が、長年楽しんで作ってきたフォンズなので思い入れもあり、作業自体はさほど苦にはならない。

校正しつつなので、必然的に文章をそのまま読む、でキュウリ!

里美にいらっしゃる「木の里農園」の布施美木さんに、「百姓母ちゃんの農天気」というコラムを連載していただいていた。こちらのBNの7ページ目にキュウリについて書いてくださっている。↓

46号 農天気⑭「ありがとう!キュウリ君」

「夏といえばキュウリ。これがもううんざりするくらい採れるので(中略)キュウリやトマト・ナスといった果菜類は、根・茎・葉を伸ばす栄養生長と実をつける生殖成長を同時にする植物だそうだ。人間でいえば、体がどんど大きくなりながら、子どももどんどん産んでしまう!?」

そうそう!キュウリが食べきれない程もらえるのだ(田舎暮らしあるある)。うっかりすると10本なんてすぐに冷蔵庫にたまってします。ぬか漬けなんかでは食べきれない…お上品に千切りにしてそうめんのトッピングに、なんて言ってたら1本しか消化しきれないの(苦笑)

話変わってある年の夏、越後妻有のトリエンナーレに友人と1泊2日で鑑賞旅行に出かけた。アート作品については横において、その時のお土産のベストが「キュウリのクローブ漬け」。名前は私が勝手につけたもの。名のない田舎の漬け物に敬意を表してなづけました、クローブ漬け。

クローブ座についてはこちら
地域アートについては、いろいろ?なものもあるけど、越後妻有トリエンナーレはさすがに先頭を切っているだけあって、コンセプト・作品・地域との連携など素晴らしいものが多い。そのクローブ座を見学に行って、地域の歴史寸劇をおばちゃんたちの地域の料理とともに見て食べた。その中にあったのがきゅりの漬け物。キュウリのキューちゃんとはまた違った味でピリ辛で美味しかった。

おばちゃんのひとりに、どうやって作るかを聞いたら、田舎料理あるあるダイナミックな漬け物だった。

***キュウリのクローブ漬けレシピ*****

キュウリ 2㎏(約20本!取り忘れてぶっとくなったのでもOK)

青じそ  好きなだけ(多いほど美味しい)積み上げて高さ8センチくらい
唐辛子  お好み
しょうゆ 3カップ

みりん  1カップ

酢    1カップ

砂糖   100g~400g(お好み)

・キュウリは大きめの乱切り、シソは5㎜くらいに細く切って大きな鍋に入れて混ぜておく。
・他の材料を別の鍋に入れてぐらぐらに沸騰させて、キュウリの上からざっとかける。
・冷めるまでそのまま置く。
・冷めたら、キュウリとシソを取り出し、漬け汁を再度沸騰させて、キュウリの上からかけて、冷めるまで置いておく。
・この作業をもう一回繰り返すと出来上がり。1週間くらいは冷蔵庫で保存できる。
・夕ご飯のあと、作り始め、翌朝もう一回、その夕方もう一回とやると手順がいい。
*******

シソの量が半端じゃないよ。

私「シソの量はどれくらい使うんですか?」

おばちゃん「これくらい」といって手の親指と人差し指で高さ(!)を示してくれた。グラムとか枚数じゃない、高さ!

農家の庭には必ず、赤しそと青シソが植えてある(っていうかいつの間にか生えてくるんだろうけど)、スーパーで10枚きれいにパック詰めになった温室育ちのシソじゃない、陽にかんかんにあたって、虫食いにも負けず育ったごわごわのしそっぱが目に浮かびました。

トリエンナーレ鑑賞旅行から帰宅してしばし、「こいこい、キュウリ」と思っているとおばあちゃんちからでっかいキュウリや曲がったキュウリなど来ましたねぇ。早速つくりました。

 

アートの思い出がこんなのって、昨日聞いたばっかりの「限界藝術」か?

キュウリとアートとフォンズの三題噺でした。

市内回遊パンフ配りの巻

以下の事業所他(敬称略)を、山新と100均で買い物したものを梅津に届けながら、一筆書きルートで回れるか?

教育委員会
市役所
山新
100均
養徳園
梅津会館
観光物産協会
道の駅
図書館
パルティホール
生涯学習センター
金茶猫
ひたちの中央クリニック
久保田クリニック
菜の花クリニック
渡辺医院
ひたち太田家庭医療診療所
ガトーデイジー

 

いけましたね(^^♪ あんまり難しくはないね、常陸太田在住30数年!

 

気になるTV③

気になるTV③ TV笑っていいとも~彼氏が彼女に着替えたら

お昼の情報番組、笑っていいともの中で面白いコーナーをやっている。付き合っている二人、カップルの男の子に女の子の服を着せて登場させ、どれだけかわいいかで賞金が出るというもの。その曜日のレギュラーメンバーが1~5の札を上げてかわいらしさを評価し、得点×1000円をゲットできる。

 

彼女の服を着た彼氏が額縁状のセット(始めはカーテンが下がっている)の中のいすに座って登場する。しっかりとメイクされ、鬘もかぶり、ポーズを指定されている男の子。その男の子をタモリが毎回、スカートの中をのぞくようなしぐさでからかう。決まったようにスカートのすそを押さえて「恥らう」男の子。これを見て、う~ん、思った。男の子はどうして恥らうのか?

 

スカートと言うものをはいてみるとわかるのだけど、あんなに安心できない洋服はない!風が吹けばパンツ丸見えになるし、危なっかしいことこの上ない。タイトスカートなんぞは、何かをまたごうとしても、足が開かない。どぶをまたごうとして、足がどぶの巾まで開ききらず、危うく踏み外しそうになった経験がある。たまにスカートをはくと、動作が服装についていかないのだ。下から覗かれる危険だってある。(誰も見ない、って突っ込みは無し)電車に乗ったときにひざを緩めないように気を使うけど、Gパンはいたときは、そんなことまったくそぶりもしない。

 

スカートを(多分、だろうなぁ)生まれて初めてはいた男の子は、覗かれる危険から身を守る、スカートのすそを押さえることなんか、動作として身につけてるはずないじゃないか?どうして、そんなにスムーズにスカートを押さえるの、君たち?

 

男らしいしぐさ、女らしいしぐさというものは、そのしぐさに該当する性別のみが刷り込まれるのではない。女の子が「キャー」とか言ってスカートを押さえるという場面を(恥らうようなしぐさをしながら、そのしぐさの影響力を計算している女の子もいるんだなぁ。ジェンダーって使いようかも)目にしたこと、誰にでもあるだろう。そのしぐさが「女」の付属品ということは、それを目にした男の子、女の子両方に焼き付けられるのである。すべての「らしさ」は男女ともに共通の概念として埋め込まれるのである。

 

女の子に扮装した彼氏は、女の子という概念も服装とともに身につける。そして、女の子らしく振舞うことを、会場で見ているお客・出演者に無言のうちに要求されていることを感じ、「恥らう」のだろう。タモリが恥らう男の子をみて、「何で恥ずかしがるんだろう?」と笑う。彼が言いたいのは「中身は男のままなんだから」というものだろうが、彼氏は役割に忠実に「女の子らしさを演じて」いるんだよ。

 

それとも、服装にはそういう中身を変える力があるのだろうか?確かに、服装は行動を制限する。着物を着れば、それなりにおしとやかになる。(書きながら、今は違ってきてるなぁって、思うけど)タイトスカートをはけば、ドブに限らず何かをまたぐなんていう「はしたない」ことはしなくなるだろう。でもそれって習慣になると、であって、瞬間的に行動が変わるというほど大きな力を持つものではない。大きな力を持たないからこそ、気づかないうちにじわりじわりと行動及び思考を制限する力として今まで使われてきたのではなかったか?

 

 

cafe+1をふりかえってみた

物置、家庭内と断捨離がすすみ、最近はデジタル断捨離に時間を少しずつとっている。

 

たまりにたまったデジタルファイル、その時々で保存しているからあっちこっちにばらばらだったり。探しあぐねて同じようなものをいくつも作ったり…。

 

cafeの画像もあっちこっちにいろいろあったのをやっと整理できた。写真を見ていると、10年以上たつからいろいろ変わってきたんだなぁと改めて思う。で、スライドショーを作ってみた。

 

あんまりあちこち整理すると…自分まもなく死ぬ予感でもあるのかと(苦笑)。一応世にはばかるくらいは寿命あるといいな。

気になるTV②

気になるTV② CM三菱モータース

穏やかそうなおじいさん…というにはちょっと早い、退職して10年くらいのおじいさんが小脇にセカンドバックを抱え道を歩いている。しっかりとした足並み、行進のような歩き方。あの年代だと、戦時中を過ごしていることを歩き方から想像させるような歩き方。後ろから、いかにも今風のフリーターっぽい若者に追い越される。ヘッドフォンで何かを聞きながら歩いているその若者のいでたちは、ピアスをして、本人だけがそう思っていない無精ひげ、あごを突き出し腰を落とした歩き方がおじいさんと対照的。

 

追い越されたおじいさんがむっとして、早足になり、その若者を追い越し返す。にんまり笑うおじいさんと、追い越されてはっと&むっとする若者。歩道橋で2段3段飛ばしに登る若者に再度追い越されたおじいさんは、曲がり角で道なりに行く若者を、コーナーをショートカットして再度追い越す…。そこで音楽と「負けず嫌いな人たちへ」とキャッチコピーが入る。

 

三菱モータースのCMで、ある特定の車種のCMではない。負けず嫌いな人たち、ではなく、負けることが許されない人たち、今も男性に「負けるな」という言葉は魔法のようにすりこまれているんだ、と改めて気づかされる。このCMのラストは…。競争のように競って歩いている二人、はっと気づくと颯爽と歩くスーツ姿の美しい女性に追い越されている。靴音から多分ヒールの高めの靴を履いてるだろうこと、ジャラジャラと音がすることから、アクセサリーなどをたくさん身につけているだろうということが匂わされる。追い越され一瞬唖然とする二人の男性、我に帰ってその女性を追い越そうとし、一方女性はそんな二人にまったく気づかない、というころでCMは終わる。この場面は何を伝えているのだろうか?この後に続くシーンを想像してみよう。追い越された女性も、むっとしてその競争に加わるのか、そんな価値観は無縁よと嫣然と微笑みながら歩いているのか?

 

これまでの男女共同参画の道のりは、このCMの続きのシーンのようだ。男性と平等を求め、男性社会の価値観の中へ新規参入を狙っていた今までのフェミニズムは前者のタイプ。どうやら、それは違っていたようだと思い始めているのが今のフェミニズムの先端なのではないか?つよい、はやい、おおきいことに価値を見出す社会に加わるのではなく、よわい、SLOW(!)、ちいさい、ことの価値を認める社会へ、と。「勝つ」という未来の実現のために、「現在」を手段化するのをやめて、「今を生きる」ことを大切にしようと。あの女性は「歩くこと」を楽しんでいるのであってほしい、と思う。そして、男性たちも歩く楽しみに気づいてほしい、そういうゆとりのある環境を男性たちに、と思う。

 

「負けるが勝ち」って!?

 

 

気になるTV①(2003年ごろ)

昔のホームページ整理編、そろそろ最終コーナー。

常陸太田市の男女協働参画委員をやっていたころ、TVから流れるCMの中のメタメッセージを取り上げてフォーラムをしたことがあった。その流れで、当時CMを面白がって見ていた記録。

 

*****

小堺一機のキャラクターイメージ

洗剤のCM(1989年~1997年) 小堺のキャラクターイメージはどのようなものだろう?「妻の尻にしかれている気弱な夫」ではないだろうか?CMの中でもそのような演技が含まれていた。(洗濯が終わったら、追加で洗濯物を渡される)男性も家事に協力する必要性を認めながらも「すすんで」「喜んで」「当然に」するものではなかったのである。このような環境の中、家事をする男性の増加は期待できない。

 

洗濯するイケメンの登場

~玉山鉄二       朝日新聞2003年7月5日(土)~クリーンヒット

1.1kg入りで店頭価格は300円前後。花王「アタック」、ライオン「部屋干しトップ」など350円前後のシェア上位品より割安感があること、「母と子」が定番だった洗剤CMに屈強風の男性ばかり登場させたこと、も人気に結びついている。柔軟剤成分をパウダー状の微粒子にしたことで、界面活性剤を使う通常の柔軟剤が衣類の吸水性を悪化させる難点を克服した。「ボールド(bold)」は英語で「大胆な」の意味。

 

CMの状況設定は?

初めて男性のみが登場する洗剤のCMの細部を検証してみる。状況設定は北海道を思わせる大規模な酪農家で働く男たち、その中の「洗濯当番」が玉山である。当初「柔軟剤」という言葉を使わず「やわらかくするの、つかってるだろう」と表現。白く洗いあがったやわらかい洗濯物にほお擦りする男たちのほほえまく屈託のない笑顔がバックの青空のようにすがすがしさを表現している。イケメンの洗濯する男の登場は家事に対するイメージの変化、あるいは家事をすすんでする男性の増加のあらわれだろうか?(柔軟剤というモノを知っている男)

 

CMは「あったら便利/これはいい」を訴え購買に結びつけるため、状況設定にリアルさを感じさせないと、嘘っぽくなり商品の訴求効果も薄れる。例えばこのCMがホワイトカラーのサラリーマンが洗濯するところを想像してみよう。このCMの続編はラガーたちらしい、残念ながらサラリーマンが登場する可能性は薄いと思われる。

気になるTV ①CMボールズ後日談

柔軟材入り洗剤ボールズのCM、洗剤を使う状況設定が面白くなってきている。

 

①大規模農業従事者/②ラグビー部員/③サーカス団員/④保育園の保父さん

 

①~③まで、いずれのCMも男だけの職場・状況設定で違和感を感じさせないものであったが、今回はついに保父さんの登場である。毎回登場する男たちのうち、ボールズで洗濯をしてない男たちはマッチョ風の男性陣をそろえ、洗濯当番で柔軟材入りの当製品を使うのが玉山鉄二であるのは共通。そこから透けて見える意図は、ボールズを「知っているVS知らない」でおじさん年代の男と若い男の対比を表そうとするもの。いつも古い男側から「やわらかくするの使ってるのか」「柔軟材使ったのか」と聞かれ、玉山が「いいえ、洗剤だけです」と答える。古いとイメージつけられている男たちも、最初は「洗濯物やわらかくするの、使ったのか?」「柔軟材(普通名詞をつかってるぞ)使ったのか?」など、柔軟材や洗濯の時につかう、洗濯物が柔らかくするものがあるということは、知っている。しかも、ついに保父編では、今まで玉山に柔軟材を使ったのかと聞いていた側の男性が、洗濯をしようとして柔軟材を探してるという状況に変わっている。(CMってほんとに細部まで気をつけて作ってあって、このCMシリーズは当初から、玉山を洗濯係ではなく「洗濯当番」と呼んでいる。役割の均等性に配慮十分)洗濯をしたことがある男たち、それが違和感ない状況をCMは設定している。今回の保父は、状況として違和感がないとは言い切れないが、それゆえにこういうことも(保育園の養育者に男性が増える)将来あってもいいよね、という主張としてみてもいいのかも。保父編のラストは、お昼寝をしている子どもたちにやわらかいタオルをかけ、トントンと背中をたたいたりしながら添い寝をしている玉山ら保父たちの映像で終わる。このCM、なかなかやるよ。何が?家事育児は大変なんではなく、大切で楽しいものなんだってのが、その映像から伝わってくるのだ。

 

昨年行ったセミナーでこのCMの話をさせていただいたとき、主婦が最も好きな家事は洗濯だという指摘を受講生からされた。確かに洗いあがった洗濯物が青空にそよぐ風景は家事の中でもここちよい瞬間である。そういえば、やりたくない家事の上位にランクされる「お風呂洗い」を夫がやってるCMって、多いなぁ…。家事の分担ってやりたくないことの押し付け合いではなく、家事の重要性を楽しさのほうから感じてもらったほうがいいんじゃないだろうか。家事は世間一般の評価は得にくいかもしれないが、重要な「仕事」で、能力もかなり要求され、またやりがいもあるものである。仕事を持ちながら家事も女性が担うことは、仕事を二つ抱えることであって負担は大きい。ゆえに現代の女性たちは家事の喜びを感じることもできにくいまま、家事分担の掛け声が大きくなってきたのではないか。

 

家事とくくられる衣食住は人が生きていくことに直接必要なことであり、また育児や介護は、人とのかかわり方、親密な人間関係を結ぶ方法とその親密な相手を思いやることを学ぶ場でもある。女性の社会進出のために、あるいは性役割分担の解消として、家事労働の分担を訴えるのは方向が違うのではないか?生きることの総和としての家事の喜びや、育児介護で人との関わり方を知る必要性を訴えるというのが、男女共同参画や家事分担を訴える本筋なんではないのだろうか?

 

このCMの受け手の側、玉山がTVに出たとき、視線を吸い寄せられる層として、戦隊ものの子ども番組をみていた主婦層(かなり若め)が、画面のこちら側にいることが想像でき、CMは変わりつつある男像を描いてもいるが、依然と変わらず洗濯を担当する女性像が仄見える。しかし、このように楽しそうに洗濯をし、子どもたちを寝かしつけるCMを無意識のうちに見聞きすることで、ある種のメッセージが見ているものの中に埋め込まれる。CM製作者が意図したかどうかは不明だが、こういうCMを見ながら育つ、現在の男の子たち(10代)は、家事への抵抗が少なく、また家事育児をする男=もてるという刷り込みもされていくのだろうか?

 

 

 

茨城大学生涯学習講座⑤(2003年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座を受けた記録⑤

1回から最後までのメモも見つかったので、課題と一緒にアップ。

 

*****

第1回 4月22日(火)第5講時 茨城大学教養科目公開講座「ビデオで見るジェンダー論」

昨年末、茨城大学の生涯学習公開講座で同様の講座があり、興味を持って楽しみに出かけたんだけど、受講者が長谷川幸介ファンの中高年の女性がほとんどで、ジェンダーのジも知らないって人がほとんどだったみたい。映画を見た後の話あいもそんなわけで盛り上がらず、先生と対で話してきてしまった感があった。もの足りなくて消化不良のまま&納得できないでいたら、今年の大学の学生向け教養科目で行なうと案内をもらい、速攻で受講希望を出した。というわけで、大学生に混じってジェンダーのお勉強。

第1回目の今日はオリエンテーション。当初通常の教室で行なう予定が、講座受講学生が多くなったので、大きな教室へ変更となった。そりゃそうだろう、映画を見て、感想を言うだけみたいな講座紹介だったもの。わたしが学生でも単位取るのに楽な講義って思ったと思うよシラバス見て。

100人以上はいると思える教室に、びっちり学生さん。簡単なレジュメが1枚廻ってきて、それをもとにこれから何を学ぶかについて長谷川先生が面白おかしく話すのだけれども、回りの雰囲気やのりはイマイチ。いつもなら講演でこの辺で笑いが取れるはずのところでもシーンとなってしまって、こんな先生見るのは初めてかも。学生相手だと初めはいつもこんな感じなんだろうか?

社会学を学ぶってここに来た学生なんだろうけど、受験のための勉強しか知らなかった学生にとって、この講義が何の役に立つのか、がピンと来てないらしい。自分の学生時代も同じようだった、「学ぶために学ぶ」ころと、必要に迫られて・興味を持って知りたいと切望して、ここに学びにきているのとの差。こういう学生たちが映画を見て、何を感じたと発言してくれるのか興味津々。一般の受講者は私のほかに同年齢くらいの、ピシッとしたスーツ姿の女性が1人。

一般受講生向けの案内には全10回の講座とあったのだけど、学生向けのを大学の掲示板で見たら、半年間にわたって行なうとでていた。どっちが本当?取り上げる映画も書いてあって「ダラス」「リトル・ダンサー」「ボーイズ・ドント・クライ」などがあがっていた。リトル・ダンサーは昨年の生涯学習公開講座でも取り上げた映画だったけど、たまたまその回は自分は都合が悪くてお休みだった時。その時の話あいが、受講していた人たちから「ジェンダーに関係ない」って言われて先生ショックだったとか言っていたから、先生のリベンジ映画なのかも。

第2回 5月6日(火)第5講時 「グッド・ナイト・ムーン」鑑賞

STORY・・・
イザベル(ジュリア・ロバーツ)は有能なファッションフォトグラファー、自分の倍ほどの年齢の敏腕弁護士と付き合っている。彼には3年前に離婚した前妻との間に2人の子どもがいる。その子供たちが遊びにくるときにはいつもイザベルといさかいが起こる。原題は「STEPMOM」継母が完璧な前妻をみならい、年頃の子供たちの母となるべく奮闘努力するお話。

一方前妻ジャッキー(スーザン・サランドン)は子供ができたせいでキャリア編集者の仕事をやめ、完璧な妻&母を生きてきたが、どんどんキャリアアップしていく夫は家庭を顧みず、だんだんと疎遠になってついには離婚に至った。自分よりずっと若く、キャリアももつイザベルに夫を奪われ、子どもたちもだんだんとイザベルになついていく。挙句にガンに冒され・・・。

見所・・・
子どもへの対処の仕方をめぐって口論になった2人の女、ジャッキーが子どもにとって最前の方法をとり、気配りも必要という。それに対して、イザベルが自分も子育てに懸命だった、しかし子どものことを最優先に生きることはできないと言い放ち去って行く場面。

この後イザベルが自分の言ったように子育てするのかと思いきや、この辺からストーリーは急カーブを描いて感動巨編のつくりになっていく。そのあたりで、自分の期待は大外れ、ちょっとうるっと来ていた目も、見えている画面に「ほんとかいね」と、ぱちくりしばたいてすっかりドライ目。

喧嘩のあと、また2人が今度は冷静に話し合う。完璧に母親役を実行してきたジャッキー。そんな彼女の代役は自分にはできないと告白するイザベル。「子供たちはこの先ずっと自分と彼女を比較し続けるだろう」そのイザベルにジャッキーは、「子供たちの過去は私のものだけれど、未来はあなたのものなのよ」と答える。

これで学生さんたち結構泣けて感動してたみたいです。来週はこの映画を元に講義&話し合いらしい。最後に先生からポイントのチェックをされる。長谷川先生いわく、「ジャッキーは11年前に仕事をやめていて、長女の年が12歳。感動で見ていてはいけない、これをサブミナル効果といい、観客の中に理想の女像を刷り込んでいるのだ」と。そんなのわかってらいと思うのはおばはんだけかも。宿題は映画の感想を今日のレジュメに書いて来週提出。

 

第4回 2003/5/20(火) 第5校時 「息子」鑑賞

「息子」あらすじ
東北岩手の農村の父、三国連太郎から東京で働く次男のもとへ電話が入る。「母親の1周忌だから必ず帰郷してこい」。法事の晩、長男次男長女と近所の縁戚が集まった席で、今後の父親の暮らしをどうするかの相談となる。母に先立たれ、不自由な暮らしをしている父を長男が千葉のマンションに呼び寄せようと言うことで話がとりあえずまとまる。

次男は職を転々とするうちに、職場で見かけた女性に恋心を抱くようになる。その女性にあう為に仕事がはじめて長続きするようになり、やっとの思いで自分の気持ちをその女性に告げ、交際がスタートする。

父が千葉の長男のマンションへ戦友会の集まりを兼ねて泊まりに行くと、長男からここで一緒に暮らすように提案される。狭い一室での暮らし、自然のまったくないマンション暮らしはできないと父は告げる。戦友会の集まりのあと、次男の様子を見にアパートを訪れると次男から「結婚しようと思っている」と美しい女性を紹介される。聾唖者であるが、清楚なその女性と気がかりだった次男が結婚すると聞き、父はうれしさでいっぱいになる。その女性とのコミュニケーションのためにFAXを買い込み、長く留守にした岩手へと帰郷する父。

誰もいない雪に埋もれた家に入り、ストーブに火を入れた瞬間、父は幻想をみる。出稼ぎから帰った自分を迎える昔の我が家。囲炉裏端に家族全員が集って食事をしている。みやげ物を渡すと歓声を上げてよろこぶ子どもたち。身体をいたわってくれる今はなき妻の若いころの姿。祖父祖母も暖かいまなざしを自分に向けてくれる。しかし、それは幻想であり、ストーブの火の瞬きとともに消え去ってしまった。

第5回 2003/5/27(火)第5校時

授業の冒頭、先日私が提出したレポートが印刷され、レジュメとともに資料として配布される。長谷川先生から、紹介があり、20分ぐらいこのレポートについて話すよう突然のフリ!

聞いてないよと思いながらも、教壇に立って自己紹介の後、簡単にレポートの内容を説明する。学生さんたちは、聞いてくれないかと思いきや、刺すような視線を向けてくる。が、途中で質問を挟んでも反応はうすく、長谷川先生がくどいように念を押す話し方をする気持ちがよくわかる。その後先生の講義に移る。

先週視聴した山田洋次監督の「息子」(原作は椎名誠)を題材に日本における家父長制から近代家族への変遷の説明。次週まで宿題として3つ出される。「提出したレポートが授業のレジュメに採用された人は授業に出なくてもAをあげます」と長谷川先生の説明があると学生さんたちはにわかだつ感じ。「レポートの量はどのくらい」と間髪いれず質問まででて、なんとも現金な・・・。いや、私もそうだったよなぁ学生のころ・・・。

課題1 父親の背景にある農家の家族と息子にある近代家族における父親像について
課題2 一番感動したシーンとその理由を述べ、ジェンダー視点で検討せよ
課題3 あの後、父親を取り巻く環境はどうなっていくと思うか?各自のイマジネーションで完結させてみること

第6回 2003/6/3(火)第5校時

映画「チャンス」鑑賞
あらすじ
‘85年に「カラー・パープル」でデビューしたウーピー・ゴールドバーグ主演のコメディ。ウオール街で働く優秀な女性ローレル(ウーピー・ゴールドバーグ)は、頭で勝負する投資コンサルタント。すばらしいアイデアを取引先に提示するが、取引先をストリップに連れて行っていい気持ちにさせて契約しようとする同僚の男性フランクに契約を横取りされ、そのおかげで出世もできなかった。そこで自分で会社を作り独立しようと考えた。だがやっぱり男社会。いいプランがあっても、女では誰も相手にしてくれないのだ。そこでローレルは架空の男性「カティー」を登場させる。カティーというビジネス・パートナーのお陰で、成功し会社はドンドン大きくなっていく。

しかし、仕事が上手くいけばいくほど、カティーの名声は広がっていくばかり。実際にはローレルのお手柄なのだ。そんなときNYの証券取引委員会からカティーがインサイーダー取引疑惑で呼び出されることになる。男装して急場をしのいだローレルだが、追っかけの記者たちに追いかけられピンチ、その時取引先の社長の車が「カティ」を拾ってくれた。助けられた車中で取引先に「証券委員会からかけられた疑惑はローレルに罪をかぶせてしまえ」とアドバイスされ、ついにローレルは切れる!

「カティ」を抹殺することにしたが、もともと架空の人物を殺すのは難しい。秘書のサリーと共謀し事故に見せかけてカティに扮した人形ごと車を爆発させて一件落着のはずが、殺人容疑でサリーともども逮捕されてしまう。無実を証明できずにいたとき、カティが架空の人物というからくりを知ったフランクがローレルと同じ手を使いカティの相棒になりすまし「カティ」を再登場させてしまう。

おかげで殺人の疑惑は晴れたが、カティをフランクに奪われてしまったローレルは失意の日々。そんな中今年もっともすばらしい業績を残したビジネスマンにカティが表彰されることになり、代役でフランクが授賞式にでると知ったローレルは、カティの扮装で表彰式の場にお忍びで出かけ、唖然とするフランクやビジネスマンの前で扮装をひとつひとつ脱いでいく。カティがローレルと解った時、はじめに拍手してくれたのは、給仕などをしている黒人やその場に入ることを許されない黒人や女性たちだった。

 

 

第7回 2003/6/10 休校

第8回 2003/6/17 第5校時

前回の映画鑑賞を踏まえて講義。
日本の女性の就業形態を主に話される。学生さんに卒業後就職する人と聞いたら100%、結婚したら退職する人、子どもが生まれたら退職する人、子どもが2人になったら退職する人、と尋ねていくと数人ずつ増えていくが、ほとんどは定年まで職を持つという。そういう希望とうらはらに仕事をやめざるを得ない女性の状況を丁寧に話してくれるが、聞いていてつらい。教室の雰囲気も暗くなったような気がしたくらい。

女性が働きつづけるにはどういう環境整備が必要かとの問に、父親の家事育児参加や給料形態の見直しまでしか意見が出ない。もっと自由な発想をと長谷川先生が言うが、まだ実感がないのかもしれない。「結婚しないで子どもを持つとか思う人はいないの?」との先生の問いに、隣の学生さんが手を挙げた。

先日読書会で、日本のシングルマザーの状況をUさんが実体験を踏まえて話してくれたが、その手を挙げた彼女は先進的な意識で手を挙げたのが見える。そうはいかない状況を彼女がしるよしもなく、落ち込んでしまう。

講義終了後、先生と話をしてたらおもしろそうな冊子を見せてくれた。ジェンダーフリー教育は日本を滅ぼすという趣旨のその冊子はつくば大の教授が出したもの。H市で男女共同参画のフォーラムなどの参加している長谷川先生に、冊子とH市長宛の公開質問状のコピーが添付してあった。

ジェンダーフリー教育に待ったをかける「会」がH市にはあるらしく、そこからおくられてきたアンケートについていたものだった。冊子をざっと見た感じはマルクス主義=共産党=ジェンダーフリーと結びつけたものらしく、読んでいて気持ちの奥が重くなる感じがした。

戦争に向かうころの歴史を習っている時のような気持ちがする。

第9回 2003/6/25 第5校時

Boys don’t Cry鑑賞

性同一性障害のブランドン(解剖学的な女・精神は男)がホモフェビアの果てに惨殺されたアメリカの実話の映画化。主演したヒラリー・クワンクは1999年アカデミー賞主演女優賞を受賞した。

以前映画公開されたときに渋谷の映画館に見に行って、なんともやりきれない思いで館を後にした。「今日見る映画は~」と長谷川先生が紹介した時には、その時の重さがよみがえってきて、見ないで帰ろうかどうか迷った。気分は重かったが、見逃したシーンや確認のためにと、気持ちを奮い起こして見る。

映画鑑賞後、エンドロールに実話であるためのその後の犯人の刑についてや、ラナ(主人公が恋する女性)のその後の逸話などが紹介されたにもかかわらず、長谷川先生が「この映画は実話です」とコメントすると、隣の学生さん(女性)が「うっそぉ」とひと言。

前期講座であるこの講座も後残り1回、どうも予定の講義がすすまないらしく(休校も1回あったし)次回7月の頭には2校時あるいは2日連続で講座を持つかもしれないとお話がある。

 

第10回 2003/7/1 欠席

第11回 2003/7/8 欠席

第12回 2003/7/15 第5校時 映画ウォーターボーイズ鑑賞

妻夫木聡主演の邦画ヒット作ウォーターボーイズの鑑賞。次回が講座の最終回になるが、そのときにこの映画のレポートを提出してもいいよと先生の言葉、「青春映画ですが、ジェンダー視点で見てくださいね、難しいと思うけど」だそう。

今まで提出されたレポートの中でAのものを配布される。最終回の宿題はこのレポートの感想を書きなさいというもの。私のレポートもAをいただけたらしく、配布される。他に数人のレポートが配られたが、視点がおもしろいものばかり。

第13回 2003/7/22 休講

第14回 2003/7/29
今日で講義終了。テスト及び夏休みなので教室はいつにもまして、がらんとしている。最後にどうしても話しておきたかったこととして、先生が「科学の視点を持つこと」を熱をいれて語ってくださる。言葉を話すことによって概念・世界を知るように自分たちは育ってきたが、その言葉の存在が「知る」ことの裏返しとして必然的に自分たちをその概念で縛られる。文化規範の中で育って、知らず知らずのうちに身につけたその縛りを科学の目をもつことによって破ろう、と。自らがつくっている枠をはずして自らを発見する、その知恵が科学である、と。

男性非婚率世界一を誇る日本の「もてない君」ものがたり

■テキスト 「ウォーターボーイズ」

この映画の主役級の5人の男子生徒のキャラクター付けをよくみると今の男性に課せられたジェンダーの一部が見える。

役柄 、演者 、描かれているキャラクター 、好かれないわけ、望まれる「らしさ」に分けて並べてみる。
役柄:鈴木智
演者:妻夫木聡
描かれているキャラクター:気弱男
好かれないわけ:決断力なし
望まれる「らしさ」:男性は女性をリードする

役柄:金沢孝志
演者:近藤公園
描かれているキャラクター:ガリ勉
好かれないわけ:運動音痴、三高でもドンくさい
望まれる「らしさ」:男は運転・泳ぎ・テニス・スキー等が上手

役柄:早乙女聖
演者:金子貴俊
描かれているキャラクター:女々しい
好かれないわけ:女々しさがおかまっぽい

役柄:太田裕一
演者:三浦哲郎
描かれているキャラクター:ダンスオタク/ヤセ
好かれないわけ:体格が貧相・オタク的嗜好

役柄:佐藤勝正
演者:玉木宏
描かれているキャラクター:マッチョ
好かれないわけ:勘違い体育系
望まれる「らしさ」:マッチョでも顔はさわやか系

日本の急速な少子化の原因として女性の高学歴・晩婚化が言われるが、その裏にある男性の非婚率はあまり注目されない。男性の非婚率は世界一である。結婚観については、働きつづけたい女性が増えパートナーに家事協力を得たいとしているにもかかわらず、男性の側は伝統的な専業主婦志向を抜けきらず、よって結婚したくてもできない男性像と、大変ならば結婚しなくてもいい女性像が浮かび上がる。

このような時代を背景として男性の「もてる/もてない」は昔に比してより切実なものとなっているのではないか。見合いという習慣があり、いつかは結婚するものとされた時代には、100%意に添わなくても結婚はするものという規範のしばりがあったが、今は理想の相手にめぐり合わなければ結婚しないという時代になったのである。そのような時代の青春映画「ウォーターボーイズ」は、男らしくない男を主役にたて、結婚観を大きく変化させてきた女性の中の、変わらない理想の男性像をあぶりだしたといえる。

男らしくない男たちが、男にふさわしくないシンクロをすがすがしく演じ、喝采を浴びることで、そのような「らしさ」や「ジェンダーのしばり」などくそくらえと笑い飛ばした爽快感がある。「男らしさ」ではなく「自分らしさ」を追及した男子生徒が結局は彼女をゲットするというハッピーエンド。

映画の登場人物に近い世代の大学生たちがこのような講義を受け、これからの時代をより生きやすいものにしていってくれるという期待も感じ、最後のテキストにふさわしいと思った。

2003年7月29日提出

 

茨城大学生涯学習講座④(2003年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座を受けた記録④

ビデオで見るジェンダー論課題

Boys don’t cry/泣いたブランドンは「男」じゃない

■テキスト「ボーイズ・ドント・クライ」
この映画は性同一性障害を描いたものとして知られるが、ヘイト・クライムの恐ろしさのほうがインパクトが強い。彼が亡くなった今となっては彼の内部を知る由もないが、彼が本当に性同一性障害だったのかという疑問が消えない。性同一性障害を含む、同性愛者のセクシャリティの混乱に視点を向けたい。

1993年、事件が起こった場所はアメリカ中西部ネブラスカ州、フォールズシティ。一目ぼれした女性がいるにしても、どうしてブランドンはカリフォルニアへ向かわなかったのだろうという素朴な疑問を映画を見た当初抱いたのを記憶している。カントリーミュージックが似合うアメリカの片田舎より西海岸へ行けば彼は殺される程のことはなかったのではないかと思えたからである。彼がこの地に残ったのは、彼の中の男の嗜好(保守的なマッチョ男が好きだった)がこの地にぴったりだったのではないだろうか。

体つきこそ華奢ではあるが、振舞はマッチョそのもののブランドン、アメリカ的マッチョ男が好きで同一化したかった。「レズではない」と何度もブランドンは口にしている。彼は自分は男であって、女を好きになる同性愛者ではないと思っていた。彼が好んだ保守的な片田舎のマッチョ男は、思想としてホモフォビア(同性愛嫌悪)を併せ持っている、そのことの危険性に気づかなかったのか?危険性を知っていても、それ以上にマッチョ男に同化したいほど、その文化になじんでいたのだろうか。中西部の田舎育ちにとってカリフォルニアに代表されるゲイ文化は異文化そのものだったのだろう。異文化の中で暮らす不安よりは子どもの頃からなじんだマッチョ文化の中に潜むほうが彼にとって安全に思えたのかもしれない。

しかし、ヘイトクライムの犠牲者となってはじめて彼はマッチョ男文化の全容を知り、それに単純にあこがれていた後悔とともに、自己のアイデンティティをじっくりと考え始めたのかもしれない。レイプ事件の後、旅立ちまでの時間のブランドンの表情が印象深い。レイプされるはずのない男である自分がレイプされる=自分は男ではないという思い。そして、ラナとはじめて女として抱きあったことで、自分のセクシャリティを意識し始めた彼に起こる微妙な変化に同調するようにラナも戸惑いを覚えたようだ。一緒に旅に出ようと誘うブランドンのキスを避けている。彼女も同じように自分のセクシャリティは何?という混乱の中に放り出されてしまったからであろう。

ヘイトクライムはレズに向けられる時は「レイプで矯正してやる」的な犯行になることが多く、ゲイに向けられた時は、殺人に至ることが多いという。この事件は殺人に及んでしまった「めずらしい」事件である。ホモソーシャル的な仲間意識をもってしまうほど男に同化していたブランドンに裏切られた思いを持った男たちに、彼らのセクシャリティの危機を感じさせてしまったことが殺人に結びついたのであろう。それほどマッチョな振舞の似合ったブランドンは、しかし本当に性同一性障害=男だったのだろうか?

2003年7月29日提出

茨城大学生涯学習講座③(2003年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座を受けた記録③

ビデオで見るジェンダー論課題
■テキスト「チャンス」

ウーピー・ゴールドバークはオヤジをめざす!~フェミニズムの系譜の中の反省

「見えない壁」「ガラスの天井」と言われる、女性の社会進出や昇進を阻むしくみについて映画は言いたかったのだろうが、学生さんたちの笑い声をききながら、同じような体験を見聞きしてきた身としては笑えない現実にやりきれなさを感じる。こんな描かれ方ではスカッとしない。そんなにうまくいくわけないし、デフォルメされた荒唐無稽な男/男社会の描かれ方には深みもリアリティを感じないし、まったくのB級映画である。またさらに、このような映画が「フェミニズム」として認識される危険性を非常に強く感じる。

フェミニズムは現在も様々な視点から検討が加えられつつある理論である。フェミニズムの系譜を丁寧にたどれば、それが発見された時からは想像もつかない地点に今あることがわかる。21世紀の私たちがめざすのは、いわゆる「男女平等」ではないのである。

この映画の主役ローレルにもっともふさわしいセリフは「It’s not fair!」ではないか。自分の立てた企画を利用し顧客との契約にこぎつけ出世していく男に対して、そしてそれらを支える男社会に向かってローレルはそう叫びたかったに違いない。多くの女性が同じ思いを抱きながらフェミニズムに出会ったはずであったが、ちょっと前までのフェミニストたちはその「unfair」な思いを男女平等という形ではらそうとした。

女性の社会進出をしやすくする環境を整えるということが、女性の能力に見合った、より高い賃金/地位/権力に結びついてしまった。それらは上野千鶴子が「オヤジ社会&オヤジ」と言って唾棄すべきものとした父権性的イデオロギーであり、倒すべき敵がたどった同じ道を女性も平等を叫びながら加わってしまったという過程がフェミニズムの系譜の中に、しかもごく近い年代に在る。

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私はフェミニズムを、ずっと弱者の思想だと思ってきた。もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれる、という思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。弱者が弱者のままで、それでも尊重される思想が、フェミニズムだと、私は考えてきた。
だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採らない。相手から力づくで押し付けられるやり方にノーを言おうとしている者たちが、同じようにちからづくで相手に自分の言い分を通そうとすることは矛盾ではないだろうか。弱者の解放は「抑圧者に似る」ことではない。
(上野千鶴子:日本女性学会ニュース89号/朝日新聞2002年9月11日)
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映画のラスト、ローレルの秘書サリーが元上司のフランクを面接で落とす場面がある。溜飲の下がる場面だろうか?こうやって溜飲を下げることを私はよしとしない。サリーの服装の変化を見逃したくない。ローレルの秘書をしていたころはいかにも中年女性風のセーターやカーディガンをまとっていたサリーの服装に変化が現れはじめ、ついにこの場面では紺のジャケットを颯爽と着ている。やはり、この映画は「男なみ」を目指した一時代前のフェミニストたちの間違った方向を描いているように思える。

2003年7月29日提出

茨城大学生涯学習講座②(2003年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座を受けた記録②

■テキスト グッドナイト・ムーン(原題:STEP MOM)

資本主義社会の忠実なメッセンジャー―ハリウッド映画による2つジェンダーの刷り込み

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キーとなるセリフ
ジャッキー:子どもたちにとっていつも最善の方法をとるのが母親の役目
イザベル:自分も懸命に子育てをしてきた・・・が,子どものことを最優先に考えることはできない・・・ルークを愛していく中で自分自身を愛しそして子どもの愛していく
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この映画のようにアメリカでも、もちろん日本でも「母親の愛」は母と子の利害が生涯同一であることを自明のものとしてきた。母のよしあしをはかる基準は両者の利害が同一であることを,いかに真剣に母親が考えているかによる(ジャッキーのセリフ)。つまり「良妻賢母」となること。よき妻も賢い母親も夫・子がいないと成り立たない。良妻賢母は主体を放棄することによって成り立つネガな主体とでもいおうか。

アメリカにおいてもっとも良妻を演じなければならないのは大統領夫人(候補者も含む)である。夫の後ろに(3歩下がって夫の影を踏まず?)常によりそい、夫の演説する姿に心から聞き惚れ賞賛のまなざしを送る。これはアメリカ社会の理想となる聖家族を演じているためである。

一方この映画で描かれているのは「良妻賢母」の「賢母」の姿である。大手出版社のキャリア編集者としての仕事と子育ての二者択一で、子育てを選んだジャッキーに残された自己実現の道は「良妻賢母」になるというものだけだった。「良妻」の部分はジャッキーの献身によって順調にキャリアの道をのぼりつめていく夫との離婚によって失ってしまったた
め、より「賢母」であることに執着する様が見ていて切ない。懸命に生きてきたジャッキーが自分の生き方をイザベルとの出会いによって振り返って見るのかと思って見ていたが,残念ながら結末は急カーブを描いて予想を裏ぎった。

50年代以降、ケネディ家に象徴される聖家族を追い求めてきたアメリカ社会は、増加する離婚率やセクシュアリティの多様化によってその理想に揺らぎを感じているのだろうか?あるいは現代に応じた規範を示す必要があったのか?

映画はジャッキーとイザベルが「子ども達の過去は私(ジャッキー)のものだけど、未来はあなた(イザベル)に託したい」と話あったシーンから、21世紀の「新しい聖家族」の感動巨編のつくりとなり、私の中では映画自体のテンションもイザベルの存在感もぐっと下がったように見える。

前日の言い争いの時には「子どものことを最優先に考えることはできない」と言い放って出て行ったイザベルが「子供たちはこの先ずっと自分と彼女を比較し続けるだろう」と言い出すその心境の変化を映画は描いていない。あれほど「とんだ女」のイザベルでも、子の母はこうあるべきという刷り込みが強いので「変節するのは当然」とするものなのか?あるいは描きようがなかったのか?映画「グッドナイトムーン」の原題は「STEPMOM」継母である。原題の「STEP」は「~への歩み」の意味も持つ。MOMへのSTEP=母への道のりと読めばイザベルの変身は当然となるという意図か?

この映画では「母」に視点があたっているため、母性神話の刷り込みに目が行くが、実は映画で語られない部分に別の刷り込みが行なわれている。

才能に恵まれ、良いスタッフに囲まれて仕事も順調なイザベル、傍目には何不自由ないと思えるのに、有能とはいえ子連れの中年男とどうして結婚までするのか?ルークとイザベルの恋愛のスタートは映画以前の物語としてカットされているが,語られていないがゆえに、ある刷り込みを当然とする映画製作の意図を感じる。その刷り込みとは「女の幸せは結婚」というものである。どんなに仕事が順調でも、それだけでは女は100%の幸せを感じないのだという巧妙な刷り込み。

「ルークを愛していく中で自分自身を愛しそして子どもも愛していく」というセリフは子ども最優先にしない宣言のようにも聴こえるが、結婚をゴールとする社会規範の枠内での制限された解放でしかない。「理想の母親像」の刷り込みと「結婚によってしか自分の幸せは実現できない」のダブル刷り込みをこのセリフが如実にものがたっている。

資本主義社会が核家族に押し付けた2つの‘care’―子育てと介護

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キーとなるセリフ②
ジャッキー:今度の結婚が成功すると思うのはなぜ?前は失敗したのに・・・
ルーク:・・・
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資本主義社会は社会の要請として男女の性役割分担を強化してきた。「公」で仕事をする男と、「私」で家事・子育てをする女。その中で資本主義社会は核家族に2つの「care」を担わせた。ひとつめの「care」は次世代の育成、子育てである。ひとつめの「care」は映画の中で充分に描かれている。ルークの無言の返事をどう読むかは観客にゆだねられているのであろうから、映画では描かれていないもうひとつの「care」をルークの無言の返事の延長として勝手に読み取ってみる。

順調に役割分担を生きてきたはずのルークとジャッキーの夫婦が離婚せざるを得なくなり、子ども達の「STEPMOM」が必要となってくるが、そのSTEPMOMが受け持つ段階は子育てのみ、次のSTEPにはまた別の「STEPMOM」が必要となってくる。それが資本主義社会が核家族に押し付けたもうひとつの「care」、介護であるという後日談はどうだろうか。

ルーク&イザベルの夫婦は順調に子育てを終え、2人の子どもの巣立ちとともにイザベルも仕事に復帰するが、充実した時はルークの親の介護によって平安を破られる。ルークは仕事優先の価値観のままで、介護はイザベルに廻ってくる羽目になり・・・。介護を押し付けられて疑問に思ったイザベルは離婚を言い出す、かすがいのはずの子どもは継子だった・・・。そんな結末が思い浮かぶ。次のSTEPMOMをさがすルークに未来はあるのか?それとも、金で解決?

この映画に限らず、メディアは意図して語っている部分(この映画では母性神話)と、それを浮き上がらせるためにあえて語らない部分があるというのを忘れないようにしたい。イザベルがどうして結婚に踏み切るのかもそうであるが、ジャッキー&ルークが離婚に至るまでのジャッキーの心理もここでは取り上げられていない。内助の功に徹するほかなかったジャッキーが、夫のSTEPUPをどう見ていたのか?ルークはどんな価値観を生きた男だったのか?これらの部分を避けたために、ルークは無言の返事をするしかなかったのである。

ジュリア・ロバーツ出演作に見るハリウッド映画の「女の道」

彼女の出世作は「プリティ・ウーマン」だろう。ハリウッドの娼婦が天性の明るさで金持ちの実業家をとりこにするシンデレラストーリー。映画のキャッチには「現代版マイ・フェア・レディ」が使われたはず。

「愛に迷った時」で夫の浮気を目撃し、家を飛び出したすえ、父親の不倫や自分も浮気にトライしたりする。どたばたの中で,自分を見つめなおし新しい生き方を模索するとか、「ベスト・フレンズ・ウエディング」ではキャリアウーマンながらも元彼の結婚話に動揺する。28歳が晩婚化の限界だったのはこのころかも。キャリアでさえも女の幸せには「恋愛」や異性から愛情の対象として見られることが欠かせないとするのは,日本での事件・東電のキャリア女性が売春のはてに殺された事件を思い出させる。

この後、テキストとなった「STEPMOM」にでて、超ヒット作「ノッティング・ヒルの恋人」に続く。この映画では、世界一有名な大女優とただの男が住む世界の違いを乗り越えて結婚にゴールインする。この映画のキャッチにもなつかしの映画が比喩に使われている「現代版ローマの休日」。しかし立場が「プリティ・ウーマン」とは逆転している。

プリティ・ウーマンは‘90年、この作品は’99年、約10年かかってジュリア・ロバーツは女の道をのぼりつめたのである。フェミニズムなんかを声高に叫ばなくても、こうやってのし上がることは可能なんだという生きた実例としてのジュリア・ロバーツがある。女のいろいろな側面を演じてきたジュリア・ロバーツだが、それらはすべてハリウッドの王道映画であり、「ベスト・フレンズ・ウエディング」で共演したキャメロン・ディアスが「彼女を見ればわかること」等に安いギャラで出演し、アメリカの女性の出口のなさを演じるようなことは彼女はしていない。

しかし、テキストの「STEPMOM」では、シナリオに共感し、もう1人の女優スーザン・サランドンとともに女優がタブーとされる製作総指揮へクレジット参加したと映画の説明にはあった。ハリウッドにおけるタブーをこのように越えていくことと演じる女像がハリウッドの求める規範を忠実になぞるということが1人の女の中に共存する。

このあとの主演作が「エリン・ブロコビッチ」であるのは,ある種象徴的にさえ感じる。「女」を武器にして勝利を勝ち取るという役柄を生き生きと演じていたジュリアは自分の存在と演じる役の間のずれ=ハリウッドが求める社会規範と自分自身の価値観とのずれ、を意識しながらこのエリンを演じていたと読むのは私自身の希望の重ね合わせかもしれない。

2003/5/13提出

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