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色々

むかしむかし~映画の感想⑥

2002年ごろ書いていた映画の感想

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まぼろし 

/ 主演・シャーロット・ランプリング 2001年(予告編はこちら

愛する人を失った時から、そのことを逃げ様のない現実として受け入れるまでの心の動きが、とても哀れに美しかった。自分にとって大切な存在をなくした時、その喪失を受け入れるのは難しい。時が解決するなんて、簡単に言うけど、時だけでは絶対に解決しない。喪失を純粋に悲しむことも難しい。愛する人を失って、泣いて泣いて・・・という時、自分で自分をかわいそうがって泣いていたりする。これから一人で生きていくさみしい自分を泣いていたり。自分自身の奥に沈みこんで、自分自身を見つめていく過程がなければ、喪失を本当に受け入れることはできない、どんなに時間がたっても。

シャーロット・ランプリング演じる妻は、夫の失踪という現実を拒否し、夫と以前と変わらぬ生活を続けているという幻想に浸って喪失を受け入れられず時を過す。が、様々な現実のカケラを体験するうちに、否応なしに夫の死を受け入れていく。

好きだった人や親密な人の面影を別人の中に見つけてしまうことがある。どこかが似ていると感じたり、彼or彼女が好きな「物」にその人自身の存在を感じてしまう時など。そういうとき、その面影を見てしまう自分の中にこそ、彼or彼女が存在するんだと思う。似ている何かを、知らず知らずのうちに別の対象にさがしている自分を感じたりするとき、それくらい「人」のことを思える時、そういう感情をいったいなんて呼べばいいんだろう。愛なんてわけのわからない言葉ではない、別の言葉がないものだろうか。

夫の影を求めてやまない妻が、あたらしいパートナー候補とベットをともにした時の笑い声と「あなたは軽いのよ」というセリフが強烈。記憶って不思議だと別のページにも書いたけど、記憶って頭の中にだけあるのではないんだと思った。肌がいとしい人の指先を覚えていたり、ある香りによって数十年の隔たりを越えて、子どもの自分に瞬間でつれ戻されたり。頭の中の記憶やこだわりは、こだわりを意味する道筋が理解できたとたんにほどけるように消えてなくなる・・・意味合いが違った場所へ記憶されなおすことがある。身体に染み付いた記憶は、特に臭覚とか触感とかいう五感の原始的な部分の記憶は、深層で記憶されてしまうのか消すことが難しい。虐待された記憶なんかはその最たるものだと思う。映画のように夫を覚えてしまっている妻の哀しさ。

映画の冒頭、夫が暖炉にくべる薪を探しに行って、大きな枯れ枝をひっくり返すと裏が朽ち始めていて、たくさんの虫が這いまわっているところが、人の存在を象徴的に物語っているようだった。

そして、こんな風に年齢を重ねて行けたら、って惚れ惚れするくらいシャーロットランプリングはきれいだった。内側の充実をそのまま現しているような外見、真一文字に結ばれた唇が、美しかった。

むかしむかし~映画の感想⑤

2002年ごろ書いていた映画の感想

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HOME

/  小林博和(兄)、小林貴裕(弟)   2001年 
/ 第1回世界学生映画祭大賞           
引きこもりの兄をふくめた家族のありのままを、弟がホームビデオで撮影した記録映画というかドキュメンタリー的作品。チラシの紹介文に「これは1本の映画をつくることによって自分の家族のあり方をより良い方向に変えようという必死な現実的な願いから生まれた作品である」(佐藤忠男・映画評論家)とか、「この作品には驚かされた。『癒し』映画なら簡単に作れる。しかし、ここでは映画が『治療』になっている。本当にそんなことが可能だったとは」(斉藤環・精神科医)とかある。それよりもインパクトあるのは「ひきこもってもいいじゃないか。ちょっと遠回りするだけだよ。」と映画タイトルHOMEのすぐそばに添えられた一文。

そんなわけないだろう!ってチラシをみて思った。チラシから受ける印象はひきこもりが弟の努力と寛容(「ひきこもってもいいじゃないか~」)な態度で更生しました、って予定調和的な深みのない映画だろうって感触。映画の自主上映会の情報は知っていたけど、そういうわけで行く気にはならなかった、ところが。茨城大学のH先生が「いい映画」だと「友達と行ったら」と、チケットを何枚もくれて、さらに上映会場がお勧めだぞと言うので、まぁありていに言えばわざわざ時間をつくって人を誘って出かけたわけです。

事実としての画面は重い。ひきこもりの兄に心身とも痛めつけられた母親のおびえるような姿や家族と離れて住む父親を世間一般の人はどうみるのだろうか?ほとんどの人の反応は「かわいそうに」だろう。AC(アダルトチルドレン)という考え方をもし理解できたら、あの両親への印象はまるで正反対になる。あの母親の態度は、ひきこもりの兄を、自分がいないと生きていけない状態・依存させ支配する者として見え、そしてひきこもりを抱えた家族の現実から逃避した父親は、自分の支配が及ばなかった兄を捨てたのだと・・・。

捨てられ支配された兄に初めて向き合ったのが、ビデオを持った弟だったということは映画の手法や可能性を語る人にとっては画期的なことだったのだろう。ちらしの映画評論家の推薦文のように。でも「家族とは」という視点はそこからは語れないように思う。それがこの作品を作った監督・撮影者・弟の限界だったと。弟は兄の言う、「3センチ上の世界」って理解できてないじゃないか。映画だけを見たら、その限界と最初に感じた予定調和的な深みのない作品という感触はあたり!だったね。ただ自分はその奥の依存症の家族の崩壊を見たのでそれは恐ろしく胸に痛かった。

ところが上映会のあと、NHKのインタビュー番組も同時に流したんです。そこで兄が語っているのを聴いていて、そこからがおもしろくなってきた。(NHKの番組のできが良かったというわけじゃない。この番組も予定調和的な映画の限界をただなぞっているだけ。良かったのは兄の言葉。それもインタビュワーには届いてはいなかったが)映画のパンフも残り1冊というのをGETして読んでみると映画の印象が一変してしまったのです。「ひきこもってもいいじゃないか。ちょっと遠回りするだけだよ(弟)」に対して「ちっともよくない。この一文を、そのままの意味で弟が捕らえているのだとしたら、私はこれからも弟と対決していかなければならないだろう(兄)」!!!そうなんだよ、弟が理解できてないのを兄はわかっていたんだ。母がしきりに「ゴメンね」と謝るのと同じ地平線上に今も弟はいると兄は知っていて、それでも家を出て行ったんだ!!!

この映画は映画のエンドで終わったのではなくて、映画の時間枠の外からが本当の映画のスタート・意義であり、そういう意味で今も映画は作られつづけている。映画の真のつくり手は今世間の中で生活している兄だったんだ。

むかしむかし~本の感想⑰

2002年から2004年ごろに書いていた本の感想

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万葉線とRACDA高岡5年間の軌跡  
           
       編著・発行 路面電車と都市の未来を考える会・高岡  ¥1500
日立電鉄が唐突にちん電の廃止を決定し、存続を願う動きがいろいろ出てきた。2004年4月24日市内で行われたちん電の存続を願う高校生たちの学習会後の意見交換の場で紹介された本。ちん電の存続を願うサイトの運営のお手伝いをしている関係で購入し読んでみた。文章は読みやすいが運動に関わった人物がたくさん出てきて、覚えるのが大変。(覚えなくても読めることは読める)これが宮部みゆきの小説なんかだと人物描写がしっかり入るのでどんなに大勢登場人物が増えても大丈夫なんだけど…と妙なところで小説の読みやすさを感じたり…。

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交通弱者(この弱者って言葉は嫌いだけど、でも解りやすいのでつい使っちゃう)のためにも、今ある公共交通機関をできるだけ有効に使うにはどうしたらいいのか?ちん電を残したいとは思っても、一市民の自分ができることってあるんだろうか?一市民の小さな力だけじゃ資本や経済の論理に勝てるわけがない、など目の前に立ちはだかる壁をクリアするには具体的にいったいどうすればいいんだろう?そんな疑問にどうぞ。この本を読むと何かが見つかります。

廃止が決定的だった路面電車・万葉線が存続に至った経緯を、時の流れを丁寧に追うレポの形で書き表してあります。6章からなる本の構成は、1~4章しのびよる廃線が存続決定されるまでのいきさつ。5章は一転して存続が決まったものの、存続決定は逆に市民運動としての存続という目標を失うことでもあり、そこからの市民運動の深め方を追ったもの。「『自治体と企業』を第3セクター、『自治体と住民』を第4セクター、『住民と企業』を第5セクターと言うなら、万葉線は新しい3セクを目指す」。そして6章は「万葉線を活かしたまちづくりへの挑戦」となっています。

ちん電の問題も一私鉄の存廃という見方ではなく、まちづくりとしての視点、さらに一人の人間がある問題に面した時、その問題にどう対処・行動するのかという生き方を問われる視点、移動の自由の確保という人権問題まで様々な視点で広がりを持っていく必要があるのでしょう。今地元の高校生たちが懸命に存続のための行動を起こしています。その行動はたとえちん電の廃止が決定になったとしても、必ずその子達の中に何かを残すに違いないのです。

むかしむかし~本の感想⑯

2002年~2004年ごろに書いていた本の感想

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毎月新聞 / 佐藤雅彦 毎日新聞社 ¥1300 
子どもの頃から、なぜかうちで取ってたのは毎日新聞だった。結婚して感じた違和感のひとつ、新聞は朝日以外は読まないという夫だったこと。そんなことはどうでもいいんだけど…。毎日新聞に月一で連載だったものをまとめたもの。新聞コラムの書籍化なんてありふれているけど、これは連載中から目を引いた。なぜって、新聞の中に新聞があるんだもの。

ミニコミの新聞の体裁を取ったレイアウトのコラムが本当の新聞の中に、面として存在するって言うだけで、充分目を引くよねぇ。書いているのはCMフプランナーで名をはせた佐藤雅彦。名前を聞いてもピンと来ないかもしれませんが、例えば「だんご3兄弟」を書いた人、ポリンキーというスナック菓子のCMなんかは「あぁあれ」って思う人が多いんじゃないでしょうか。

新聞のコラムだから読みやすいのは当たり前だけど、例えば朝日のT声J語みたいな、知性と教養とついでに権威の匂いがプンプンする、「ははぁ~」ってひれ伏したくなるようなコラムではまったくない。CMプランナーという職業がなるほどと思える視点の転換があふれた、そういう意味で目からウロコの本。

実は友達宛に同じような新聞型の手紙を連載で送っていたことがあって、なんか自分のやり方も結構いいセンいってたんじゃないかなんて、これはちょっとうれしい自己満足だけど。買うこともないなって思ってはいたので、本屋で立ち読みしていた。立ち読み2回で充分読みきれちゃう分量なのでね。でも、視点のすばらしさがあふれていて、これはとっとくと、ネタ本に使えるかも、なんて不純な動機で手に入れた。なるほどなるほどの1時間になりますよ。

むかしむかし~映画の感想④

2002年ごろ書いていた映画の感想

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シッピング・ニュース

主演・ケヴィン・スペイシー 2001年/ ベルリン国際映画祭正式出品(予告編はこちら
児童虐待には身体的暴行・性的虐待・ネグレクト・心理的虐待の4種類あるという。主人公のクオイル(ケヴィン・スペイシー)はふとした瞬間に父親から泳ぎを覚えさせられたシーンがよみがえる。彼の父親は幼い息子のクオイルを海に突き落として泳ぎを覚えさせるような男だった。必死でもがき溺れそうになりながら水面を見上げるとそこにあるのはじっと見下ろす父親の顔、その瞬間の映像が消えることなくクオイルに記憶されている。新聞やTVをにぎわす児童虐待の親の言い分「しつけ」は、親の不当な暴力の実態を隠すための言葉だった。虐待という言葉生み出されて初めてその概念も生み出されたんだ。

記憶って不思議だと思う。あるシーンを数十年たってもリアルに覚えている。その場の匂いや肌に触れる感覚まで、その瞬間に立ち戻ったように、思い出してしまう。そういう思い出が幸福なものであればいいが…。クオイルは父親からずっと虐待といったほうがいい育てられ方をしてきて、自尊心のカケラも無くしてしまった男。自分の壁を作り、その中に閉じこもることでしか自分を守るすべを知らない。

映画のパンフレットの表紙は、クオイルの先祖の一族が忌まわしい事件を起こし生まれ故郷を追われ、住んでいた家を引きずりながら移住先へ向かうシーンが使われている。吹雪の舞う灰色の世界を「家」を引きずっていく家族、移住先は極東の島の岬の先端。崖の上にすえつけられた家は、吹きすさぶ風のため、ワイヤーで凍った地面に縛り付けてある。「崖の上のしばられた家」は人生の隠喩であり、このシーンはこの映画の象徴として忘れられない風景となった。

「家」という忌まわしい重荷を後生大事に引っ張りつづける人生、風土にしばりつけられる家。そしてそういう「家・一族」の結果としての父親の性格とその父に虐待されて育ったクオイル。そんなクオイルが生まれ故郷で、暖かい友人たちに囲まれて人生をやり直していく。クオイルに起こる奇跡が、ワイヤーで縛り付けられた家のその後と重なって語られるラストは印象的。

「崖の上の家」が心象風景として心の中ある、そういう人たちへ。再生はある。

むかしむかし~映画の感想③

2002年ごろ書いていた映画の感想

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運命の女

主演・リチャード・ギア、ダイアン・レイン 2002年 (予告編はこちら
何がすごいって、主人公の夫子持ちの主婦が行きずりのプレイボーイと不倫して、家に帰る途中の電車の中の表情。男との情事を思い出してほてった顔、思わず恍惚の表情になったり、同時に深い悔恨・罪悪感の表情になったり。あのシーンだけでも見る価値があったってくらいすごい。

幸せだけど、ときめきとかには縁のない生活,、予定調和的にきっと一生が終わってしまうはず、安定はしているが先の見通せる生活をしていた「有閑」主婦が、ひょんな事で知り合った男と、ちょっとした浮気のつもりが、快感のとりこになって歯止めがきかなくなり、とんでもないことになってしまう・・・。ありがちなストーリーだけど、映画にひきつけられるのはこの表情のせい。昔はプレイボーイ役でならしたリチャード・ギアが朴訥なまじめ一方の夫役を、ほんとにうまく演じてる。

浮気相手の男は、したたか。こうやればまじめにバカがつくような女でも、引っ掛けられるし、引っ掛けたら、こういう扱いをすれば、しがみつくようになるってのを、知り尽くしているって感じ。いや、「まじめな女でも」ではなく、まじめな女「は」こうすれば「常識の壁が壊れる」=「ものにできる」=「しがみつく」って言ったほうが正しい。

妻が感じていたのは本当の快感だったんだろうか?釣り橋を渡るときのドキドキと人を好きになるときのときめきを人間が勘違いするって言う実験を見たことがある。この妻の感じたのは、もしかするとこの実験のように快感と勘違いするような別の感情だったんじゃないかな。他にも、たまねぎの皮を剥くように、ひとつひとつ自分の感情をきちんと分けて見つめていけたら、そしてそれらの感情が何から構築されたのかが、彼女がわかったら・・・。

そしてもうひとつ、自宅とプレイボーイの家のなんとまぁ驚くべき対比。きちんとしたWASPの家と、自由気ままな空間としての男の部屋。ないものねだりって言っちゃぁおしまいだけど、もしかしたらありえたはずのもうひとつの「私の人生」への憧れとその憧れの生活を今エンジョイしている、自由な(でも危険な)男。

柳田國男が東北の女性が「不安」という感情を理解できてないと、書いてあって、そんなバカなとそのときは思った。でも実際自分の気持ちほど良くわからないものはないって最近思うようになった。自分では楽しいと思っていることが、世間一般の「楽しいはずの物語」をなぞっているだけで、本当の自分の感じとは微妙にずれていることに。

倫理観や西洋では宗教上のタブー、そういうものを破る時、人は何を感じるのだろうか?妻が感じたのは、この常識や倫理の枠の外へ出るというある種の「ドキドキ・ときめき・解放感」にも似た感情だったんではないか?また、罪悪感にさいなまれる時、その感情をどう扱ってよいか、「まじめ」な人ほど対処法が解らないで、罪悪感を心の中から追い出す方法として、さらに泥沼に陥るって悪循環。

罪悪感を構成する、産まれた時から意識の底に刷り込まれた倫理観は、資本主義社会延命のための構造という、現代のフェミニズムの最先端の知識を持っていたら、こんなことにはならなかったろうに・・・。もうちょっと語りたいけど、ここから先は共通の言語をもつ相手にじゃないと、うまく話し合えないなぁ。フェミニズムを語るのに、結構いい題材になる気がする。

むかしむかし~映画の感想②

2002年ごろ書いていた映画の感想

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8人の女たち

主演・カトリーヌ・ドヌーブ他 2002年/ ベルリン国際映画祭銀熊賞(予告編はこちら
「金田一君!事件です」ってぇ、感じの状況設定。クリスマス・イヴ、大雪で外界から閉ざされた富豪の邸宅にその家にゆかりも因縁もありそうな8人の女がつどい、そこで一家の主が殺されているのを発見する。いったい犯人は誰か?

映画全盛期のオマージュというつくりは、美しくゴージャス。おもしろいのはミュージカル仕立で8人の女がそれぞれの生き方・キャラクターをを歌って踊って表現するところ。そして、8人の見事に違うキャラクターのすべてが私の中にも存在するとさえ感じる。

犯人は誰かは、まぁどうでも良くて、8人の女それぞれの秘密が暴かれていく過程がおもしろい。フェミニズムをちょびっとであれ、かじったものとしては、え~!!!って思って見ているんっすよ。どうしてこうもみんな「男」に振り回されてんだろうねぇ、ってさ。女同士のライバル意識や姑根性なんか捨てちゃえばぁ?振り回される男が問題なんだって気づかないかなぁ、って感じで。でも、ま、それも最後の最後に披露されるダンスで、こういうわけだったのねって納得しちゃう。

厳格なオールドミス役のイザベル・ユペールの歌が哀しい。彼女は別の出演映画「ピアニスト」でも共依存の母親からのがれられないオールドミスの役で、自らを絶望へ追い込む役を演じてあまりの痛々しさに泣けた。彼女の演じるオールドミスが、自分を縛っていたものに気づき、気づくことで解放されるとともに美しく変身していく姿に自分を重ねて見ちゃったりして・・・。

最後に、富豪の妹役、ファニー・アルダンに、私ぁ惚れました。鋭い美しさっていいなぁ。あんな目に見つめられたらどきどきするよねぇ ^_^; あこがれ?、憧れって「他者が持っているものを所有したいと欲すること」なんだってさ。私にああいう美しさがないので欲しがってるってぇことか・・・!

むかしむかし~映画の感想①

2002年ごろに書いていた映画の感想

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戦場のピアニスト / 主演・エイドリアン・ブロディ 2002年 
           /アカデミー賞主演男優賞他6部門.・カンヌ映画祭パルムドール
                             (予告編はこちら)
映画を見ながら、去年青森で聞いた辛淑玉の講演を思い出していた。戦争を国威国家を背負って見ていては解決しない、1人の人間としての視点をというメッセージを聴いていて感動したことを。この映画の紹介でも必ずふれられている、監督ポランスキーはホロコーストを生き延びたユダヤ人であるが、その視点に偏りはなく、ドイツ人にも良い人がいた、ポーランド人にも悪い奴はいた、と。辛淑玉の語る第2次世界大戦と同じ、平等に個の視点で冷静に事実を伝えてくれている。

私が映画を見た時期はイラクへアメリカ・イギリス軍が「解放」のため進行し、バグダッド陥落が伝えられたころだった。TV画面の見えないところで起こっていることが映画の中でリアルに映し出される。巧妙に悲惨な場面を報道しないTVの画面から、あの映画のような状況を読み取れる人がどれくらいいるのだろうか。メディアの読み方、メディアの裏側を感じ取れる感性を、せめてこの映画を見ることで、「今」この映画が上映されている意義を大切に活かして欲しいと思った。

夜の闇に紛れて「月光」が聴こえてくるシーンは、わすれられないシーンのうちのひとつ。「月光」を聴いて、心がふるえた。音楽の素養に乏しい私でもドイツ将校が奏でる「月光」はベートーヴェンの曲だろうと推測できるし、ドイツ将校に曲を弾けと命じられてシュピーマンが引いたのはショパンで、ショパンはポーランド人なんだろう、と。戦争のさなか、しかも敗戦が遠くない戦況の中「月光」を引くために夜出かけてくる将校の人間性が、何気ないカットで伝えられる。部下の出す書類に次々と目を通しサインするシーン・・・。

そしてポランスキーの偏りのない視点も、本当にさりげなくしかし印象的に語られる。ホロコーストを生き延びたヴァイオリン弾きが立場の一転したドイツ人捕虜に向かって罵倒したことを「悔やむ」、聞き逃してしまいそうな小さなせりふだけれど、間違いなく観客に届いているだろう。

アカデミー賞授賞式でのエイドリアン・ブロディのコメントはこの映画のあのシーンとつながっているんだと、映画を見ながら振り返っていた。「あなたの信じる神がどのような名であれ、神のご加護を」と。

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もうひとつの感想

主演の男優は実際にピアノを弾いている!洋画を見ていてよく同じような場面に出会う。ピアノを弾いている指先だけが別人だろうと思ってみていると画面がひいてきて、演じている本人だったりすること!よくパンフにピアノの特訓をしたとか書いてあるけど、特訓なんかであんなに豊かなピアノが弾けるようになるものなんだろうか?

元題が同じ別の映画「ピアニスト」でもそうだった。若い音楽家の役の役者が自分でピアノを弾いている。役のうえで、若い音楽家が自分のピアノの先生に「表情豊かな曲を弾く」とか、「曲の構想があ~だ、こ~だ」と言われる場面があった。

そこでの設定は、日本で言ったら芸大の音楽家ピアノコース(そんなのある?っていうかそんな感じの)の学生の役で、そんな学生が弾く曲がどんなレベルなのか、ピアノの解る人が映画を見たら違和感を感じないような演奏なんだろうなぁ。ってえことはそういうレベルに曲を弾けるって事だよね。

特訓でそういうレベルにたとえ1曲でもできるようになるって、ホンマかいな?!私も(も、なんて言っていいのか!)ピアノ習い始めてもう3年ちょっとになるのに、いまだに簡単な編曲のものしか弾けない。練習量が違うって言われたら終わりだけど、そんな量でカバーできるものなのか?ある程度の時間って必要なんじゃないのかって思う。あるいはピアノってものが日本よりもっと身近で、弾ける人も多いとか・・・。なんだかそういう場面に出会うたびに文化の差を感じるなぁ。

とにかく、ピアノの先生関係でこの映画を見た方!ぜひ本人の弾いている曲が、役に見劣り(聴き劣り?)しない程のものなのかどうか、教えてください。

むかしむかし~本の感想⑮

2002年~2004年ごろに書いていた本の感想

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家族狩り 1~5部 天童荒太 新潮社文庫 (¥476~¥667)
ついに茨城県でも起こってしまった家族をめぐる事件。自分にとっても身近な土浦と水戸の事件で、子どもたちの通う学校でも事件の関係者と近い人が多く、起こってしまった事件の波を感じないではいられない。

子どもによる家族惨殺事件の真相を探る5部作は、このような事件が起こったときに訳知り顔でコメントするTVの出演者よりずっとずっと真実に近いものを伝えているに違いない。閉ざされた家族と言う密室の中で、あるいは、社会の中で孤立した家族の中に何が起こっていて、その当事者たちはいったい何を感じているのか、これほどリアルに書いた作品は初めてではないだろうか。ある意味事件を追ったルポよりも事実に近い気がする。

肯定的に受け入れられない子どものどうしようもない行き場のない気持ちも、親たちの当惑も、何とかしたいと動く周りの人々の気持ちも、それぞれの思いがしみるように伝わってくる。登場人物の語る言葉一言一言がまるで自分が発した言葉のように思えるくらいリアルである。

それゆえ、読み進むのはしんどい。解るがゆえに、この先にあるのは闇だけのような気がしてきて、読み続けるのが辛くなる。それでも、第5部のタイトル「まだ遠い光」を求めて読み続ける、考え続けることが「まだ遠い光」に近づく唯一の方法だから。

むかしむかし~本の感想⑭

2002年~2004年ごろに書いていた本の感想

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考えることで楽になろう / 藤野美奈子 (協力=考えるプロ 西研) 
                  メディアファクトリー ¥1200
「悩むことと考えることは別のことである」って西研の別の本にあって、月並みだけど「目からうろこ」。今まで費やしたほとんどの時間は「悩んで」いただけで、問題解決に向けて考えていたわけではなかったんだなぁって、その時思った。

西研が漫画家藤野と組んで、考えるコツを教えてくださる。
①感情の中に動いているものを感じてみる。
②なるべく正直に、公平に!
③いったい何が「核心」なのかを、言葉でつめていく。
④どうすることが「私にとって」いちばんいいか、を考える。
⑤そのさい、私にできること/できないこと、を考えてみる。
⑥ゆっくりと気持ちが形をなしていくのを待つ、という手もある。

藤野が思考の過程を、すべて上手く言葉にしてあるので、それをたどっていくうちに、読み手も考えるレッスンが少しできるようになる、気がした。頭の中で、ぐるぐると考えのかけらが渦巻いているのままでは、本当は考えることにはならないんだなぁ。言葉にする、話し言葉でも、もちろん文字ならさらにいい、兎に角言葉にすることが、考えることには大切。

自分ではわかったような気がすることを人に説明しようとして、言葉に詰まるというか、上手く説明できないことってしょっちゅう。気になる言葉を書き取ることからはじめ、きちんと考えてみようって、改めて思った・・・のは、ほぼ1年前。ずっとコンテンツにあげたまま、ほったらかしにしてあったのも、それはそれで何かの必然のような理由が在ったのかもしれない。今年こそ、考えよう、そして楽になろう。

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