むかしむかし~映画の感想㉑

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

息子のまなざし 
/ 主演  オリヴィエ・グルメ (公式HPはこちら) 2002年
/カンヌ国際映画祭主演男優賞・エキュメニック賞特別賞
ファジル国際映画祭グランプリ・主演男優賞
ベルギー・アカデミー最優秀作品賞・主演男優賞 (予告編はこちら

見終えても何も語りたくない。この映画について何かを語ると、語ったことと語らなかったものの間のずれが、語ったのは自分なのに埋めようがなく、語るのをやめるしかこの映画を伝えることはできないと思えてしまう。

ラストシーンのために、もう一度見たいと思った。自分が許されない痛みを与えてしまった相手の前に、ああやって「たつ」こと、そのシーンのために。

おまけ
実家が製材業を営んでいたので、背景の木工作業の現場の風景が懐かしい。木材を切るときの音が画面から響いてくると、その切っている木材の振動が手に伝わり、木の断面の大きさに比例して強くなる香り。ラストシーン、二人で木材を車に積み、ロープを掛けシートでくるむ、すべての動作に身体の記憶が呼び起こされた。懐かしい思い出。

むかしむかし~映画の感想⑳

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

めぐりあう時間たち

/ 主演 ニコール・キッドマン他 2003年
/ 2003年アカデミー賞主演女優賞 (予告編はこちら

解る人には解る、解らない人にはまるで解らない映画。解る人とだけ、シェアしたいので感想はパス。5月13日朝日新聞「銀の森」は納得できない。

むかしむかし~映画の感想⑲

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

マルホランド・ドライブ 

/主演/ナオミ・ワッツ 2001年 (予告編はこちら

難解というか不条理というか、?な映画だという評判通り。謎解きのBBSが映画公開後2年もたった今も賑わっているそうだけど、それも肯ける。デビット・リンチ監督は「観客はこの映画を直感で読み取るだろう」と言ったとか。私の直感的な印象は、2人の女性のラブストーリーだな、ってもの。

女優を目指して田舎の町から叔母の住むハリウッドへ生まれてはじめてきたベティ。留守の間借りる約束の叔母の家で荷解きをしていると、無人のはずの家に記憶をなくした美しい女性・リタがいた。リタの記憶を取り戻す手伝いをしているうちにものがたりは奇妙に時空間をよじれてすすんでいく。なぞを解く鍵らしいブルー・ボックスをリタがあけた瞬間,その箱に閉じ込められていたパラレルな時空間へ観客はスリップさせられる。

謎解きや深読みにはまれば、DVDでも買って何度も見直し、シーンの小物さえも何かの意味があるとはまっていくのも解る。いつもなら、そんな映画の見方をしがちな自分だけど、この映画では違った。なんて悲しいラブストーリーだろうって、想いだしても胸が痛む。

あやしい司会者が「お静かに」と幕をあげるステージで唄われる悲恋の唄こそが,この映画のクライマックス。その唄を聴きながら現実の世界では幸せになれなかった2人の女性が涙を流すシーンが忘れられなく印象的。

タイトルの「マルホランド・ドライブ」と言うのは、実在のハリウッドの通りの名前。真夜中に若者が暴走したりギャングたちの死体遺棄の場所として有名だとか。ハリウッドの夜景を見下ろせる曲がりくねった暗い道、荒涼としたところもあるが、ハリウッドスターなどしか住めないような超高級住宅もあるという。暗闇の中をうねうねと続くそんな道は、人の心の闇の中をたどる道のりの象徴なんだろうと思う。

むかしむかし~映画の感想⑱

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

ロスト・イン・トランスレーション

/ 主演 スカーレット・ヨハンセン 2003年
/ アカデミー賞最優秀脚本賞受賞 4部門ノミネート(予告編はこちら) 
          
同じ日に見た2本の映画の主演が同じ女優さん、スカーレット・ヨハンセン。まったく趣の違う2本の主演作を見て、女優らしくない印象の弱い顔が彼女の売りかも知れないと思った。たとえば、ジュリア・ロバーツのような美女は顔の印象が強すぎて、役よりキャラクターの方が浮き出てしまいがち。観客もそれを承知で、ジュリア演じる役を見ているというように。

朝日新聞の「銀の森」がこの映画を取り上げていて、珍しく酷評。日本文化の中に溶け込めないでいるのは、異文化への旅の準備を怠った「外人」のほうにあり、疎外感の壁を作っているのはその外人本人たちだという視点が欠けているという評だったけど、でも、銀の森のほうが誤解かも、って思う。アメリカ人の傲慢さが鼻につく映画だとも言っていたが、見てみたらアメリカ人の滑稽さ、薄っぺらさもきちんと描いているし、だいたい映画の伝えたい部分はそこではないのではないかなぁ。

自分の居場所がないと感じている存在同士が、共通部分をお互いの中に見つける。共鳴する心、それをよく人は「愛」だの「恋」だのに勘違いしちゃう。けれどもここの二人は、簡単に恋なんかしなかった。居場所がないと感じている人は、寂しさを抱えて生きているんだけど、その寂しさを忘れるためにする恋愛ってのが、実は『いわゆる恋」の正体かも知れない。共鳴は「いわゆる恋」なんかではなくて、もっと根源的な一体感とか、同じ方向を見つめるもの同士の共感みたいなものじゃないだろうか?寂しさを解消するのではなく、寂しさを抱えたまま、それでも日々をあるがままに生きていこうとする勇気のようなものを感じる映画だった。

むかしむかし~映画の感想⑰

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

死ぬまでにしたい10のこと 
/ 主演 サラ・ポーフィー  2002年  (予告編はこちら

夢もなにもない、毎日目の前に起こることを片づけて生きてきた23歳のアン。ある日腹痛で倒れ検査すると余命2ヶ月の進行癌と宣告される。底辺で生きてきた自分と家族のことを思い、病気を打ち明けないことを決意する。そして、死ぬまでにしたいことを夜のカフェで書き出してみた。10のリストができあがった。アンはそれらをひとつづつ実行していく。

「死」なんていう状況設定をする物語なんて、きわものっぽくて、一歩引いて用心しながら見るに限るって思っていた。死ぬまでにしたいことが10、それがあまりに何気ないことで、それゆえに主人公アンの暮らしのつつましさに想いがいたる。

毎日娘に愛してるよという
家族でビーチに行く…

幸せってどこか遠くにあって、何かを越えないと手に入らない、そういうものではなくて、こういう毎日にこそあるんだ。そうやって毎日を生きることが、よい死につながる。生と死は断絶ではなくてつながっている同じものなんだ。

「夫以外の男性とつきあう」10の中にあるこの項目は女役割の中に閉じ込められた女性がこころの奥底に持っているもの。「誰かが私に夢中になるように誘惑する」は女性として生きることとセットになって刷り込まれているもの。誰かが愛してくれないと私は幸せになれないという刷り込み。自分を犠牲にして誰かの幸せを願うという生き方も、女の役割の中の大きな部分だろう。いつもならこんなジェンダーバイアスばりばりの映画は見ていると腹が立ってくるんだけど、これは見ていてす~と涙が出てしまう。切ないなぁ。

おまけ
映画を見るときはなるべくパンフを買ってくる。この映画のパンフは、アンが10のことを書きだしたノートと同じ大きさになっている。色もショッキングピンクで同じ。ちいさなパンフってちょっとめずらしくかわいい。でも、ここまでやるならパンフの中に罫線だけのページをつくってそこにパンフを買った本人の10のことを書けるようにしたらよかったのに…。

むかしむかし~映画の感想⑯

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

木更津キャッツアイ 日本シリーズ
/ 主演 岡田准一 2003年  (予告編はこちら)

TVで深夜放映されていたのを見た人って、そんなにいたのかなぁ?って思うほど、映画館は小学生らしい子どもたちも含めて「若者」でいっぱいだった。こんなに若者がたくさんいる映画館に入ったのは久しぶり。

娘2人と見に行ったのは、もしや会場がこんな感じかもって予感があったから。若者にまぎれて一人おばさんが大口開けて笑えまいという…。引率を気取って入ったんだけど、思いっきり笑ってしまいました。でも、満席とは思わなかったので、冒頭のTVの見てた人いたのかなぁって感想になったのですが、娘いわく「夕方再放送いっぱいやってたから、(実際に深夜)TVでやってたころは見てる人いなかったよ、学校で話にならなかったから」だそうです。

主人公は木更津のヤンキー、相川翔・命のいわゆる「不良」が、余命半年を宣告されて残された日々を「普通」に生きることを描いた、っていうと感動巨編みたいになってしまうんだけど、脚本が宮藤官久郎だから…。宮藤がパンフで「どうか映画についていってください」って言うほどの話のあっちこっち具合が、好きな人には面白いんだけど、「大人」にはドラマの進行そのものがわかんなくて目が回るお話だと思う。

こんな映画や元TVを子どもたちと一緒に見ていられる自分って、誇っていいのかはたまたおかしいのか?自分ではそういうのも私の感性の一部で大事にしたいっては思うんだけど。その私の感性でいえば、主人公のぶっさんたちが孤島に流されるエピソードとゴミの怪獣が出てくるエピソードは「いただけない」。

あの部分を普通に木更津の町での話でエンディングまでつなげてくれたら、宮藤に喝采だったのになぁ。おしいなぁ。あのTVを見ていた一番「わかる」人たちにとっては、映画になるってことは大衆受けするためにツマンナクなる、薄くなるってことになってしまっただろうと思う。踊る大走査線の轍を踏んだってことか、木更津も。

岡田准一や桜井翔なんてジャニーズのアイドルがこういうキャラをよく演じることができたなぁって、アイドル路線の幅の広がり方に驚いた。だって、岡田君はユンソナ演じる彼女にパンツ脱ぎかかって襲い掛かったり、桜井君が風俗に行くんですよぉ!?そっちの方が本人に近いかもってのは、ナシのアイドルでしょう?清く正しいアイドルって建前ではもうすでにうそっぽ過ぎて売れないって時代なのねぇ。

映画はチョイはずれでしたが、木更津キャッツアイの5人組は大好きです。宮藤の次回作も期待しちゃう。それにしてもTVで深夜やってた番組がブレイクすると、キャストも売れっ子になってしまって、そのせいでスケジュール調整が難しくなり、TVの続編とかが作れなくなるってのは、残念だなぁ。きっとこの木更津も同じ脚本のIWGP(池袋ウウェストゲイトパーク=TOKIOの長瀬智也主演)も次回作ってないだろうなぁ。つまんないの。

更新作業終了だぁ!ビール!ビール!ビール!(わかる人だけ 爆)

むかしむかし~映画の感想⑭

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

幸せな孤独 
/デンマーク映画(予告編はこちら
                 
          
結婚前の幸せいっぱいのカップルだった、ヨアヒムとセシリ。しかし、ヨアヒムはセシリの車から降りた瞬間に事故に遭い、首から下の身体が不随になってしまう。絶望したヨアヒムは心を閉ざし、セシリに冷たくあたる。セシリは事故を起こしたマリーの夫で、ヨアヒムが入院する病院の医師でもあるニルスを頼るようになり、いつしか二人は引かれあうようになってしまう。一つの事故が2組のカップルに大きな亀裂をもたらすというストーリー。

ストーリーは見ていて不快を感じるほど、どうしてそうなっちゃうんだという方向にすすんでしまうが、ラストに救いがある。2組のカップルそれぞれが一人で生きていくことを選択する。ここでタイトルが生きてくる。

孤独は不幸だというのがどこの国でも共通の認識なんだろう。でも、孤独は不幸せではない。この映画の展開から言ったら、「孤独から幸せへ」だろうし、だからタイトルが「幸せな孤独」なのだろう。一人で、誰にも依存しないで生きること、そうやって生きていけることに気がつけることはなんて幸せなことだろう。

寂しさを埋めるために「誰か」を利用するのではなく、愛するために離れて生きること、そういうのが本当の愛かも、って思った。村上龍の「最後の家族」のラストを思い出させる。

自分の状況を理解したヨアヒムが見せる絶望の目、いつか見たことがある目だった。

むかしむかし~映画の感想⑮

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

ハウルの動く城 

/ スタジオジブリ (ネタばれ注意!)(予告編はこちら

宮崎駿監督の最新作。一足先に見に行ってきた二女に感想を聞くと「ムズカシイ・・・(^_^;)」。茨城大学の生涯学習公開講座でもこのアニメの話がちょっと出て、みてきた方が(50代後半の女性)「難しかった、どうしてソフィは若くなったり年寄りになったりするのかしらね」とのこと。ふ~ん、と思いながら見に出かけた。

宮崎監督のアニメ映画には原作があるけど、原作は正しい意味での原作ではなくて、登場人物のキャラクターとか大まかなストーリー「少女の成長譚」だとか、今回のハウルで言えば、たぶん動く城のプロットが気に入ったんだろうな、ほぼ宮崎監督のオリジナルだと思ったほうがいい、そういうつくりの毎回の作品のひとつだった。

宮崎監督作品の流れで言うと「耳をすませば」「千と千尋」系とでも言おうか、少女が自分を発見し成長していく様が描かれている作品のひとつになるだろう。背景に描かれてる戦いの中のひとつとして、いかにも宮崎風の飛行物体などがたくさん登場するが、あれはきっと宮崎オリジナル、原作にはないに違いない(後日原作を読んでみたがやはり想像通り)。

魔女にかけられた呪いが「難しい」という感想を解くヒントになるのではないかな。自分にかけられた呪いを人に説明できないと言うくだりは、なるほどそういうことねとどんどんなぞは解けていく。原作に忠実ではないと書いたが、人物像などはきちんと描いてはいる。ただし非常に短く象徴的に説明されるので、考えながらみてないとわからないままに過ぎてしまう。たとえばソフィの人物像、父の家業の帽子屋を長女だからと継いでいる。妹は近くの店の看板娘であり、その妹目当ての客で店が繁盛するほど。このくらいの説明で、ソフィと妹の性格は十分すぎるくらいに描かれている、のだけど、解らない人にはわかんないのだろう。

自分がやりたくて帽子屋を継いでいるのではないこと、きれいな妹に比べ、地味な長女性格のソフィいは、コンプレックスを抱えているし、自分のやりたいこと(帽子屋は継ぎたくはなかったんだろう)を自分の口に出すことができない、損な性格だねとソフィは思っているんだろう。呪いを他人に説明できないということがヒントだと言うのは、このこと。「あんたってかわいくないね」などと人に言われたとする、言われた当人は「そんなことない」と否定しようとしても、自分自身が容貌に引け目を感じていると、その言われた言葉は深層心理の中で大きくなり、表面上自分で否定しても心の奥底では「自分はブスかも」と悩みを抱えることになる。これが「言葉の持つ力=呪い」、だ。

そのソフィが、容貌もなんも関係ない老婆になってしまうことによって逆に開き直りからコンプレックスを克服していくそのプロセスで、「自分を見つける」「自分に自信を持つ」時は本来のソフィの若さを取り戻すし、また、愚痴をこぼすような状況の時には、人も信じられず自分自身も信じられないので老婆の姿=呪いの力に押さえつけられている状態に戻ってしまうと言うからくりだろう。

火の悪魔とハウルの契約=呪いについても二女はわからないと言っていた。これは想像になるけど・・・。火の悪魔はもともとは流れ星だったのがラスト近くに種明かしされる。その流れ星をハウルが飲み込むシーンが出てくるのだが、そこが悪魔との契約らしい描かれ方だなと思う。たぶん、「流れ星が地上に落ちると消える=死んでしまう」のをハウルが「美しい流れ星」を救おうと悪魔に永遠の命をみたいな願いをして、それと引き換えに、悪魔との契約って言ったら定番の、命とか魂を悪魔に提供したんだろうね。

その契約によって「心臓=心」をなくしたハウルはそのために火の悪魔と一心同体のようになってしまう(ひとつの心臓を共有する関係)になり、そののろいを解くには、ハウルが心を取り戻すことが必要で、心を取り戻すには「恋」という薬が大事、って事でしょうか。だから、きれいな女の人の心を盗む(女の人に恋するふりで近づくけど、心がないので愛せなくて、相手の心を奪うだけになってしまう)。ところがソフィが献身的に接してくれたので初めて恋をする=人を愛することができ、心を取り戻す、って読んだのですが。細かなところは、千と千尋でも説明されてないので今回も想像するしかないのね。その想像部分を補う心理的な読みができないと「難しい」のでしょう。

読みが正しいかどうかが心配で、原作も読んでみた。翻訳が下手なのか原文がこういう語り口調なのかはわからないけど、回りくどい文章で読みにくく、特に面白い話だとも思わなかった。ハリーポッターに夢中になるような世代なら、(読書初心者とでも言いましょうか)面白く読めるかも知れないけど、それなりに人生経験をつんできたおばさんにとっては、無駄を省いてセリフひとつに象徴性を持たせるくらい研ぎ澄まされた宮崎アニメの方がよっぽど面白かった。

ただ、原作でも映画でも、ソフィーがハウルを、そしてハウルがソフィーを、いったい何時好きになったの?とは思った。あれが好きなのに打ち明けられない同士の物語なら、二人とも最初のお祭りのシーンでの出会いの一目ぼれってこと?そんなぁ、って感じがする。

むかしむかし~映画の感想⑬

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

デブラ・ウインガーを探して
/ ドキュメンタリー 2002年  

監督をしているのは、もともとは女優のロザンナ・アークウェット。ハリウッド映画界の唯一絶対の価値観は若く美しいこと。そんな中で40代を迎え、仕事と家庭の両立に悩んだ彼女が同業者にインタビューしまくって作り上げたドキュメンタリー。素顔の(?)女優たちがそれぞれの思いを語る。

NHKのドキュメンタリーなんかの方が上手いんじゃないかなぁ。何を訴えたかったんだろう?両立に悩む女優も同じ女ですよって言いたかったのかなぁ?あんまり面白くない。共感する言葉がなくもないけど、でも、「へぇ~」って、それだけ。感動のへぇ~ではなくて、「そうなのか、そうだよね」って、確認だけのへぇ~。最後のほうは寝てしまいました。

ウーピー・ゴールドバーグのお尻の話は笑った。

むかしむかし~映画の感想⑫

2002年ごろ書いていた映画の感想

*****

女はみんな生きている 

/ 主演 カトリーヌ・フロ ラシダ・ブラグニ 2001年 
                     
/ 2002年セザール賞 2002年リュミエール最優秀有望若手女優賞受賞 (予告編はこちら

平凡な夫婦がある夜パーティーへ参加しようと車を飛ばしていると、その前に血まみれの女と彼女を追って数人の暴漢が現れる。彼女が助けを求め車の前に立ちはだかると、運転していた夫は車のロックをかける。呆然とする夫婦の前で女は殴る蹴るの暴行を受け倒れるが、女を心配する妻、血まみれになったフロントガラスを心配しながら立ち去ろうとする夫。こうして事件は、いや戦争は始まった…。

襲われた女性を探して病院にたどりついた妻・エレーヌは集中治療室に横たわっている彼女・ノエミの姿を見つけ、立ち去ることができなくなっていた。献身的に介護を始めるエレーヌによってノエミは奇跡的に回復していく一方、家出状態で出てきているため、エレーヌの家の中は荒れ放題。夫のポールは家事一切できないのでお手上げ、戻ってこいの大騒ぎ。

エレーヌの携帯に留守電を入れる「アイロンのかけ方がわからな、連絡をしろ」それを聞いたエレーヌが返す返事がいいなぁ「本当はアイロンなんか口実でしょう。本当は私のことが心配で電話したのね。(このあとは略)」。そうだよね、何も言わずに出て行ったんだから、最初に言うのは本来なら、妻を心配する言葉だろうに、それが家事のことだもの。この夫婦の関係がどうなっていたかを想像するにはぴったり。

いろいろと波乱万丈がありまして、自分を見失っていたエレーヌがノエミとの出会いで、自分の行き方を発見するっていう結末。専業主婦論争のころ、「フェミニズムにはまった主婦たちが夫との結婚生活を振り返って、本当の生き方を探して離婚する=生活レベルが落ちる」ことを見聞きするのはもう嫌だと、小倉千加子が語っていたことがあったけど、それを映画でやっちゃったんですね。でも、映画は安心、ノエミが稼いだ莫大な財産があるから。という訳で、終わったときはある種のカタルシスがあって、小さく拍手しようかなって思って、指先だけでぱちぱちしてきました。

ノエミが言い寄るポールやポールの息子に「もうSEXはしない」と毅然と言う姿に感動した。ああいう風に言い切れたらどんなにか、楽。夫・ポールの母を見ていて、「豊か」ってイメージがわいてくる。

Scroll to Top