むかしむかし~映画の感想⑪

2002年ごろ書いていた映画の感想

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チャーリーズ・エンジェル フルスロットル 

/ 主演 キャメロン・ディアス ドリュー・バリモア ルーシー・リュー
予告編はこちら

「結構フェミだって」と聞いたので、お正月用ビデオでレンタルしました。キャメロン・ディアスはきれいだとは思うけれど、出演作で見たいなぁって思うものに出くわさなかった。唯一見たのは、「彼女を見ればわかること」の盲目の役。

こっちの作品のほうが持ち味っていうか、要求されている役柄なんだろうなぁ。のっけからフェロモン系びんびんで登場して、男たちの群がる酒場で、ロディオで腰を使いまくって注目を引く役割だもの。007みたいに、頭の中はHしかないくせに、かっこつけてるアクション映画なんかではなくて「要するに、これでしょ?あんたたちの欲してるのって」とばかりの映像にストーリー。

でも、なんか見てて気持ちいいんだよね。お尻さわるオヤジは投げ飛ばしちゃうし、男と同棲するけど、結婚願望は微塵もなくて。アクションシーンもスカッとする!男性がやくざ映画とかアクション映画を見て、カタルシスを感じるのがわかる気がした。

性役割分担なんか、くそ食らえって感じで、「女」にこびりついているもろもろを、使えるものは何でも使えと、意図して演じている感じが、これからの「フェミ」って感じがするんだろうなぁ。面白かったぁ。

キャメロン・ディアスって結構ダンス上手いなぁ。チア・リーダーにちょっと扮してたけど、そういう系出身なのかなって思うぐらい。ドリュー・バリモアさんは、映画の撮影中は痩せてたのねぇ。プレミアで来日した時、TVのニュースで見たのとは体型がふた周りくらい違ってるんじゃないだろうか。ルーシー・リューのお父さん役が不思議に面白かった。娘が売春でもしてるのかと勘違いしてるんだけど、それでも娘を愛してる。そういう理解のされ方が、映画になるんだなぁってびっくり。

むかしむかし~映画の感想⑨

2002年ごろ書いていた映画の感想

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アメリ 

/ オドレィ・トトゥ主演 2001年 (予告編はこちら

冷たい父親と神経質な母親に育てられたアメリは学校へいけず、一人空想の世界を遊び相手に大きくなった。今はカフェで働いているが,毎日がつまらない。

ある日、浴室のはがれたタイルの奥に宝箱を見つける。以前すんでいた家族の子どもがここに隠して忘れてしまったものらしい。この日からアメリの生活が変わる、「何かすること」を見つけた彼女はその宝箱を持ち主に人知れず返そう、もしそれができたら自分の未来が変わるかもしれないと思いはじめる。

今はうだつのあがらないただの中年男でしかない宝箱の持ち主を、やっとのことで見つけ出したアメリは魔法のようにその宝箱を男の手に返すことに成功し、彼の人生を優しく希望のあるものに変えてしまう。その事件は、アメリに人生の目的を発見した!と思わせた。彼女は、まわりの誰かを今よりちょっとだけ幸せにすることの喜びを見つけたのだ。

夫に逃げられたアパートの管理人や毎日怒鳴られている八百屋の心やさしい店員にいたずらのように幸福を届けているうちに、ある奇妙な写真収集家にである。その日からアメリのペースはおかしくなってしまった,彼女は彼に恋してしまったのだ。

人のことならアイデアと行動力で何でもできるのに,自分の恋愛には不器用この上ない。そう、子どもの頃、家庭に閉じこもって空想の世界に住んでいるしかなかったアメリは人との距離がうまく測れない。近づこうと作戦は練るもののもうちょっとのところで,一歩が踏み出せない。

おしゃれな映画だなぁって思う。昔コミック本の恋愛ものに夢中になっていた頃を思い出させるわくわく感。映画を見終わった帰り、誰もいない帰り道をスキップして歩きたくなるような,楽しい映画でした。映画見ながら,そうだよなぁって思ったもうひとつ、人生って何気ない楽しみにあふれてるんだなぁ。水路で水切りしたり、クリームブリュレの焼き目を壊したり。そんな楽しみを見出せる豊かな時間を持っていたいって思った。

むかしむかし~映画の感想⑩

2002年ごろ書いていた映画の感想

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イン・アメリカ 

/ 主演  サマンサ・モートン ジャイモン・フンスー 2004年
/ サンダンス国際映画祭 オフィシャル・プレミア・セレクション (予告編はこちら) 
          
二人姉妹の妹、アリエル役のエマ・ボルジャーが愛らしい。あんなに表情豊かに自由にいられたらどんなに楽しいだろうとうらやましくなる。自分自身は姉のクリスティに近いかもって思いながら見た。

他の映画を見たときに予告編を見て、見たいとは思ったが、恐ろしくて見られなかった。「喪失」の映画だったから、しかも病気で子どもを失った家族の再生をテーマにしてると聞いては、自分の経験と重なる部分が多くて足がすくむ。そういう映画をやっとみることができた、そのこと自体がうれしくて、映画にも泣けたけど自分自身にも泣けた。

自分の心の中に、自分自身ではない誰かが住み着いてしまった、この映画では幼くして脳腫瘍でなくなった長男。自分自身の中に、どんなに愛する人であっても他者が住んでしまうと心は平静になれなくなる。

この映画も、先日見た「21g」も、光を見つけるには悲しい出来事を経ないと見つけられないという。砕ける、壊れる、失う・・・そういうことは恐ろしいから、なんとしても避けたい・逃げたいのだけど、逃げると逆に自分の心の中に住まわせてしまうことになるんだ。避けないで、逃げないで向き合うと、粉々に砕けたこころが、その砕けたかけらに比例して輝いていることに気がつく。

この映画もラストで、さようならをいうシーンがある。スイミング・プールのような穏やかなさようならの手の振り方ではないけれど、涙でぼやけた月に向かって手を振るのも、なんだかうれしくなるようなさようならだった。

エイズで亡くなるマテオと子役の二人が魅力的。

むかしむかし~映画の感想⑧

2002年ごろ書いていた映画の感想

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21g 

/ 主演 ショーン・ペン ナオミ・ワッツ ベニチオ・デル・トロ 2004年
/ アカデミー賞ノミネート(主演女優賞・助演男優賞)(予告編はこちら) 
          
ベニチオ・デル・トロが良かった。貧しい階層の男、過去の過ちを修正しようと敬虔な信仰に生きている・・・というよりすがっているが、すがっているゆえに神にも裏切られ罪を重ねることになった自分をどう理解してよいかわからない。混沌の中で、一人立ち向かうしかないと家族からも離れてひたすら自分を罰しながら見つめている、その姿があわれ。

絶望の果てに希望があると、映画のパンフにもかいてあったけど、希望って「そこに」しか見つけられないんだなぁ。絶望から逃げようとすると希望は見つけられないんだ。ジャックがポールに射殺されるのを望んだのは死によって絶望から逃げられると思ったから・・・。。

ポールともみ合ううちに逆にポールを撃って怪我をさせてしまう、絶望の二重奏。でも、彼を必死の思いで病院に搬送するジャックは、絶望の果てにかすかな希望があるのを見つけられたということなんだろう。見てて辛い映画だった。

むかしむかし~映画の感想⑦

2002年ごろ書いていた映画の感想

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彼女を見ればわかること 

/ 主演 キャメロン・ディアス他 2000年
/ 2000年カンヌ映画祭<ある視点>グランプリ(予告編はこちら
ポジティブな絶望ってこの映画を評した人がいたけど、その通り。「女に出口はない」ってこと!?

自分の能力を活かし、仕事で成功しているにも関わらず不倫で中絶したり、新しい恋人候補が電話をくれないと落ち込む女性など、女性として解放されたのに、根っこのところで何か満たされない思いを引きずっている女性たちを描いている。微妙にクロスする5人の女性のオムニバス映画。だいぶ前、新聞をにぎわせた東電の女性キャリアが売春していて殺された事件を思い浮かべてしまった。

「女の幸せは結婚」と盲目的に信じさせられてきた女性の長い歴史を、フェミニズムが解放し、女性は変わった。でも、そうやって変わってきた彼女たちを取り巻く世の中の物語は依然として昔のまま。「愛」のない生活は空虚だと昔の物語を彼女たちの深層へ送りつづける。

結婚・恋愛・愛なんて人生の幸せのうちのほんのひとつの選択肢に過ぎないそれだけがすべてじゃない。到達点へ向かう人生、何かを成し遂げない幸せはと来ない、愛(恋愛・結婚)のない人生は無意味・・・そんなことない!毎日の生活の中に、心地よさはたくさんたくさん溢れているって、彼女たち/私たちに言おう。それこそが本当の自由への出口じゃないか。

続編が去年(2002?)公開されたはず、ビデオやさんで探してこようっと。

******以下は2020年の上記の感想

自分で書いた映画の感想を読み直して、も一回見てみよう、なんて思っている雨の土曜日の朝。

「『女の幸せは結婚』と盲目的に信じさせられてきた女性の長い歴史を、フェミニズムが解放し、女性は変わった。でも、そうやって変わってきた彼女たちを取り巻く世の中の物語は依然として昔のまま。「愛」のない生活は空虚だと昔の物語を彼女たちの深層へ送りつづける。」これ自分で書いてて嘘だね。

「『女の幸せは結婚』と盲目的に信じさせられてきた女性の長い歴史を、フェミニズムを知ることによって解放され変わっていった女性もいた。」が正しい。

今も変わらないというか、当時なにがしかのインパクトある事象によって歴史の軌道がずれたとしても、そのずれはインパクトある事象が目指した方向に正確に変化するのではなく、その他のもろもろの世の中の事象によって、それらと共にずれていくんだ。

結果として、後から振り返ってみると、螺旋のような三次元の波打つ動き方で、思ってもみなかった方向に進んでいっている、というか「いた」のがわかる。

で、新たな問題が浮上してくる、ということの繰り返しなんだね、歴史って。

すべての状況に対して、私たちは「初心者」であり続ける。変化を望んで活動しても、解決には至らず、新たな課題にまた出会うという…。そういう意味で出口はやっぱり、ないんだ。

むかしむかし~映画の感想⑥

2002年ごろ書いていた映画の感想

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まぼろし 

/ 主演・シャーロット・ランプリング 2001年(予告編はこちら

愛する人を失った時から、そのことを逃げ様のない現実として受け入れるまでの心の動きが、とても哀れに美しかった。自分にとって大切な存在をなくした時、その喪失を受け入れるのは難しい。時が解決するなんて、簡単に言うけど、時だけでは絶対に解決しない。喪失を純粋に悲しむことも難しい。愛する人を失って、泣いて泣いて・・・という時、自分で自分をかわいそうがって泣いていたりする。これから一人で生きていくさみしい自分を泣いていたり。自分自身の奥に沈みこんで、自分自身を見つめていく過程がなければ、喪失を本当に受け入れることはできない、どんなに時間がたっても。

シャーロット・ランプリング演じる妻は、夫の失踪という現実を拒否し、夫と以前と変わらぬ生活を続けているという幻想に浸って喪失を受け入れられず時を過す。が、様々な現実のカケラを体験するうちに、否応なしに夫の死を受け入れていく。

好きだった人や親密な人の面影を別人の中に見つけてしまうことがある。どこかが似ていると感じたり、彼or彼女が好きな「物」にその人自身の存在を感じてしまう時など。そういうとき、その面影を見てしまう自分の中にこそ、彼or彼女が存在するんだと思う。似ている何かを、知らず知らずのうちに別の対象にさがしている自分を感じたりするとき、それくらい「人」のことを思える時、そういう感情をいったいなんて呼べばいいんだろう。愛なんてわけのわからない言葉ではない、別の言葉がないものだろうか。

夫の影を求めてやまない妻が、あたらしいパートナー候補とベットをともにした時の笑い声と「あなたは軽いのよ」というセリフが強烈。記憶って不思議だと別のページにも書いたけど、記憶って頭の中にだけあるのではないんだと思った。肌がいとしい人の指先を覚えていたり、ある香りによって数十年の隔たりを越えて、子どもの自分に瞬間でつれ戻されたり。頭の中の記憶やこだわりは、こだわりを意味する道筋が理解できたとたんにほどけるように消えてなくなる・・・意味合いが違った場所へ記憶されなおすことがある。身体に染み付いた記憶は、特に臭覚とか触感とかいう五感の原始的な部分の記憶は、深層で記憶されてしまうのか消すことが難しい。虐待された記憶なんかはその最たるものだと思う。映画のように夫を覚えてしまっている妻の哀しさ。

映画の冒頭、夫が暖炉にくべる薪を探しに行って、大きな枯れ枝をひっくり返すと裏が朽ち始めていて、たくさんの虫が這いまわっているところが、人の存在を象徴的に物語っているようだった。

そして、こんな風に年齢を重ねて行けたら、って惚れ惚れするくらいシャーロットランプリングはきれいだった。内側の充実をそのまま現しているような外見、真一文字に結ばれた唇が、美しかった。

むかしむかし~映画の感想⑤

2002年ごろ書いていた映画の感想

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HOME

/  小林博和(兄)、小林貴裕(弟)   2001年 
/ 第1回世界学生映画祭大賞           
引きこもりの兄をふくめた家族のありのままを、弟がホームビデオで撮影した記録映画というかドキュメンタリー的作品。チラシの紹介文に「これは1本の映画をつくることによって自分の家族のあり方をより良い方向に変えようという必死な現実的な願いから生まれた作品である」(佐藤忠男・映画評論家)とか、「この作品には驚かされた。『癒し』映画なら簡単に作れる。しかし、ここでは映画が『治療』になっている。本当にそんなことが可能だったとは」(斉藤環・精神科医)とかある。それよりもインパクトあるのは「ひきこもってもいいじゃないか。ちょっと遠回りするだけだよ。」と映画タイトルHOMEのすぐそばに添えられた一文。

そんなわけないだろう!ってチラシをみて思った。チラシから受ける印象はひきこもりが弟の努力と寛容(「ひきこもってもいいじゃないか~」)な態度で更生しました、って予定調和的な深みのない映画だろうって感触。映画の自主上映会の情報は知っていたけど、そういうわけで行く気にはならなかった、ところが。茨城大学のH先生が「いい映画」だと「友達と行ったら」と、チケットを何枚もくれて、さらに上映会場がお勧めだぞと言うので、まぁありていに言えばわざわざ時間をつくって人を誘って出かけたわけです。

事実としての画面は重い。ひきこもりの兄に心身とも痛めつけられた母親のおびえるような姿や家族と離れて住む父親を世間一般の人はどうみるのだろうか?ほとんどの人の反応は「かわいそうに」だろう。AC(アダルトチルドレン)という考え方をもし理解できたら、あの両親への印象はまるで正反対になる。あの母親の態度は、ひきこもりの兄を、自分がいないと生きていけない状態・依存させ支配する者として見え、そしてひきこもりを抱えた家族の現実から逃避した父親は、自分の支配が及ばなかった兄を捨てたのだと・・・。

捨てられ支配された兄に初めて向き合ったのが、ビデオを持った弟だったということは映画の手法や可能性を語る人にとっては画期的なことだったのだろう。ちらしの映画評論家の推薦文のように。でも「家族とは」という視点はそこからは語れないように思う。それがこの作品を作った監督・撮影者・弟の限界だったと。弟は兄の言う、「3センチ上の世界」って理解できてないじゃないか。映画だけを見たら、その限界と最初に感じた予定調和的な深みのない作品という感触はあたり!だったね。ただ自分はその奥の依存症の家族の崩壊を見たのでそれは恐ろしく胸に痛かった。

ところが上映会のあと、NHKのインタビュー番組も同時に流したんです。そこで兄が語っているのを聴いていて、そこからがおもしろくなってきた。(NHKの番組のできが良かったというわけじゃない。この番組も予定調和的な映画の限界をただなぞっているだけ。良かったのは兄の言葉。それもインタビュワーには届いてはいなかったが)映画のパンフも残り1冊というのをGETして読んでみると映画の印象が一変してしまったのです。「ひきこもってもいいじゃないか。ちょっと遠回りするだけだよ(弟)」に対して「ちっともよくない。この一文を、そのままの意味で弟が捕らえているのだとしたら、私はこれからも弟と対決していかなければならないだろう(兄)」!!!そうなんだよ、弟が理解できてないのを兄はわかっていたんだ。母がしきりに「ゴメンね」と謝るのと同じ地平線上に今も弟はいると兄は知っていて、それでも家を出て行ったんだ!!!

この映画は映画のエンドで終わったのではなくて、映画の時間枠の外からが本当の映画のスタート・意義であり、そういう意味で今も映画は作られつづけている。映画の真のつくり手は今世間の中で生活している兄だったんだ。

むかしむかし~本の感想⑰

2002年から2004年ごろに書いていた本の感想

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万葉線とRACDA高岡5年間の軌跡  
           
       編著・発行 路面電車と都市の未来を考える会・高岡  ¥1500
日立電鉄が唐突にちん電の廃止を決定し、存続を願う動きがいろいろ出てきた。2004年4月24日市内で行われたちん電の存続を願う高校生たちの学習会後の意見交換の場で紹介された本。ちん電の存続を願うサイトの運営のお手伝いをしている関係で購入し読んでみた。文章は読みやすいが運動に関わった人物がたくさん出てきて、覚えるのが大変。(覚えなくても読めることは読める)これが宮部みゆきの小説なんかだと人物描写がしっかり入るのでどんなに大勢登場人物が増えても大丈夫なんだけど…と妙なところで小説の読みやすさを感じたり…。

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交通弱者(この弱者って言葉は嫌いだけど、でも解りやすいのでつい使っちゃう)のためにも、今ある公共交通機関をできるだけ有効に使うにはどうしたらいいのか?ちん電を残したいとは思っても、一市民の自分ができることってあるんだろうか?一市民の小さな力だけじゃ資本や経済の論理に勝てるわけがない、など目の前に立ちはだかる壁をクリアするには具体的にいったいどうすればいいんだろう?そんな疑問にどうぞ。この本を読むと何かが見つかります。

廃止が決定的だった路面電車・万葉線が存続に至った経緯を、時の流れを丁寧に追うレポの形で書き表してあります。6章からなる本の構成は、1~4章しのびよる廃線が存続決定されるまでのいきさつ。5章は一転して存続が決まったものの、存続決定は逆に市民運動としての存続という目標を失うことでもあり、そこからの市民運動の深め方を追ったもの。「『自治体と企業』を第3セクター、『自治体と住民』を第4セクター、『住民と企業』を第5セクターと言うなら、万葉線は新しい3セクを目指す」。そして6章は「万葉線を活かしたまちづくりへの挑戦」となっています。

ちん電の問題も一私鉄の存廃という見方ではなく、まちづくりとしての視点、さらに一人の人間がある問題に面した時、その問題にどう対処・行動するのかという生き方を問われる視点、移動の自由の確保という人権問題まで様々な視点で広がりを持っていく必要があるのでしょう。今地元の高校生たちが懸命に存続のための行動を起こしています。その行動はたとえちん電の廃止が決定になったとしても、必ずその子達の中に何かを残すに違いないのです。

むかしむかし~本の感想⑯

2002年~2004年ごろに書いていた本の感想

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毎月新聞 / 佐藤雅彦 毎日新聞社 ¥1300 
子どもの頃から、なぜかうちで取ってたのは毎日新聞だった。結婚して感じた違和感のひとつ、新聞は朝日以外は読まないという夫だったこと。そんなことはどうでもいいんだけど…。毎日新聞に月一で連載だったものをまとめたもの。新聞コラムの書籍化なんてありふれているけど、これは連載中から目を引いた。なぜって、新聞の中に新聞があるんだもの。

ミニコミの新聞の体裁を取ったレイアウトのコラムが本当の新聞の中に、面として存在するって言うだけで、充分目を引くよねぇ。書いているのはCMフプランナーで名をはせた佐藤雅彦。名前を聞いてもピンと来ないかもしれませんが、例えば「だんご3兄弟」を書いた人、ポリンキーというスナック菓子のCMなんかは「あぁあれ」って思う人が多いんじゃないでしょうか。

新聞のコラムだから読みやすいのは当たり前だけど、例えば朝日のT声J語みたいな、知性と教養とついでに権威の匂いがプンプンする、「ははぁ~」ってひれ伏したくなるようなコラムではまったくない。CMプランナーという職業がなるほどと思える視点の転換があふれた、そういう意味で目からウロコの本。

実は友達宛に同じような新聞型の手紙を連載で送っていたことがあって、なんか自分のやり方も結構いいセンいってたんじゃないかなんて、これはちょっとうれしい自己満足だけど。買うこともないなって思ってはいたので、本屋で立ち読みしていた。立ち読み2回で充分読みきれちゃう分量なのでね。でも、視点のすばらしさがあふれていて、これはとっとくと、ネタ本に使えるかも、なんて不純な動機で手に入れた。なるほどなるほどの1時間になりますよ。

むかしむかし~映画の感想④

2002年ごろ書いていた映画の感想

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シッピング・ニュース

主演・ケヴィン・スペイシー 2001年/ ベルリン国際映画祭正式出品(予告編はこちら
児童虐待には身体的暴行・性的虐待・ネグレクト・心理的虐待の4種類あるという。主人公のクオイル(ケヴィン・スペイシー)はふとした瞬間に父親から泳ぎを覚えさせられたシーンがよみがえる。彼の父親は幼い息子のクオイルを海に突き落として泳ぎを覚えさせるような男だった。必死でもがき溺れそうになりながら水面を見上げるとそこにあるのはじっと見下ろす父親の顔、その瞬間の映像が消えることなくクオイルに記憶されている。新聞やTVをにぎわす児童虐待の親の言い分「しつけ」は、親の不当な暴力の実態を隠すための言葉だった。虐待という言葉生み出されて初めてその概念も生み出されたんだ。

記憶って不思議だと思う。あるシーンを数十年たってもリアルに覚えている。その場の匂いや肌に触れる感覚まで、その瞬間に立ち戻ったように、思い出してしまう。そういう思い出が幸福なものであればいいが…。クオイルは父親からずっと虐待といったほうがいい育てられ方をしてきて、自尊心のカケラも無くしてしまった男。自分の壁を作り、その中に閉じこもることでしか自分を守るすべを知らない。

映画のパンフレットの表紙は、クオイルの先祖の一族が忌まわしい事件を起こし生まれ故郷を追われ、住んでいた家を引きずりながら移住先へ向かうシーンが使われている。吹雪の舞う灰色の世界を「家」を引きずっていく家族、移住先は極東の島の岬の先端。崖の上にすえつけられた家は、吹きすさぶ風のため、ワイヤーで凍った地面に縛り付けてある。「崖の上のしばられた家」は人生の隠喩であり、このシーンはこの映画の象徴として忘れられない風景となった。

「家」という忌まわしい重荷を後生大事に引っ張りつづける人生、風土にしばりつけられる家。そしてそういう「家・一族」の結果としての父親の性格とその父に虐待されて育ったクオイル。そんなクオイルが生まれ故郷で、暖かい友人たちに囲まれて人生をやり直していく。クオイルに起こる奇跡が、ワイヤーで縛り付けられた家のその後と重なって語られるラストは印象的。

「崖の上の家」が心象風景として心の中ある、そういう人たちへ。再生はある。

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