むかしむかし~映画の感想㉛

2002年ごろ書いていた映画の感想

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チョコレート

/ 主演・ハル・ベリー 2002年
/ アカデミー賞主演女優賞    (予告編はこちら

アカデミー賞初の黒人の主演女優賞、とびっきりの恋愛なんてうたい文句で、期待して出かけたんだけど、そんなバカなってスクリーンに向かって言いたかったよ。

喪失を受け入れるのは難しいって、「まぼろし」の感想のところで書いたけど、この映画のもう1人の主役ハンクが失った愛=自殺した息子と、親から得ることのできなかった愛の代用品としてハル・ベリー演じるレティシアを「救ってあげる」お話でした。

「愛って何ですか?」って高名なT大のU教授に質問した時の返事を思い出した。「愛は相手を自分の思うがままに支配しようとする暴力的な感情のことです」きっぱりと言ってたけど、ハンクの愛もレティシアの愛も、そのまんま。

喪失感を受け入れられず、何か代用品で心の穴を埋めようとした二人、似たもの同士で引き寄せあった2人が、「愛」ではないもので結び付けられた自分たちを自覚したららしいラストはどう読めばいいんだろう?「とびっきりの恋愛」なんてキャッチをつけた奴はあれをハッピーエンドだとでも思ったんだろうか?

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2002年ごろ書いていた映画の感想

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山の郵便配達

/ 主演 トン・ルゥジュン(滕汝駿) リィウ・イェ(劉燁)
(予告編はこちら

仕事でほとんど家にいることのない父と、不在がちの父になじめない息子を描いていると言う点で今の日本の仕事人間の父親像と重なる部分が多く、「父」という立場について思いを至らせるのにうってつけの映画だと思う。

友達のある若い父親が、仕事が忙しすぎて子どもとかかわる時間が十分に取れず、いいわけともつかないが「子どもとかかわる時間は量ではなくて質」と言っていた。時間もままならない父親はそう思わずにはいられないというのが本当だろう。しかしどれほど「質」と言っても、なじむまでも行かないかかわりのための時間の量の少なさは、質だけでは補えきれない。補えきれないまま、父との微妙な距離感もそのままに子どもは大きくなっていく。そうやって大きくなった子が父の仕事のあとを継ぐことになったところから映画はスタートする。

父が仕事に従事している間、家族のことを忘れていたわけでもなく、父に愛されていなかったわけでもないと子どもが気がつくためには、父と子がこの映画のように向き合う時間が必要なのだろう。あるいは、実際に向き合うのではなく、父の視点で父自身の人生を振り返ることができたら・・・。つまり、父親という役目の負っているものを子どもが自身の中に取り込むことができたら、父という役目(家にいて家族とともに時間を過ごすことのできない立場)ゆえの家族を大切に思う気持ちを理解することができるのではないか。

同行する犬の名前が「次男坊」である理由を思うだでけでも、父の気持ちは痛いほど想像できる。そのような思いを持ちながら、しかし仕事のために家族と離れなければならず、そして家族から離れて暮らす心のうち・思いを口に出して表現することのできない「父」という存在の切なさに胸が痛む。ラストシーン、次男坊が父に挨拶をしてから息子の山行に同行していく姿、見送る父の姿は、何度見ても目が潤んできてしまう。

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2002年ごろ書いていた映画の感想

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talk to her 

/ 主演 ハルビル・カマラ レオノール・ワトリング 他
2002年アカデミー賞最優秀脚本賞 
ゴールデングローブ賞最優秀外国映画賞 (予告編はこちら

事故により植物状態・昏睡状態に陥ってしまった女性アリシアを献身的にケアする看護士、ベニグノ。競技中の事故で昏睡状態に陥ってしまった女闘牛士リディアの恋人マルコは、ベニグノのようにリディアの看護をすることができず、ふさぎこんでいた。

同じ病院で同じような境遇の女性を看護することになった二人の男たちには、いつしか深い友情が芽生えていった。しかし、ベニグノの妄信的な介護は思わぬ事態をまねく。
(あらすじはこちら)

「究極の愛」だというふれこみだった。介護なんて硬い言葉でなく、「ふれるさわるなでる」といった人と人の身体的なコミュニケーションのすばらしさを描いているのだ、と思って見に行った。

だけれども、本当にこれが「究極の愛」なんだろうか?ベニグノのした行為を思うと、嫌悪感しか浮かばない。植物状態を奇跡的に脱したアリシアには、昏睡中に自分に起こったことは告げられていない。「究極の愛」かどうかを決めるのは彼女のはずではないのか?あれを「愛」と呼ぶのはベニグノの側の論理であって、そこに相手・アリシアの意思はまったく考慮されてない。家父長制の中で一方的に「愛」と称され支配を受けてきた、そのことを今変えようとしているのに、こんな映画が「究極の愛」って呼ばれるなんて・・・。

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2002年ごろ書いていた映画の感想

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スイング・ガールズ 

/ 主演  上野樹里ほか  (予告編はこちら
ウォーターボーイズで名を上げた矢口史靖の期待の新作。前作が男の子、今回は東北の落ちこぼれ女子高生を描いている。

前作同様音楽の使い方がとてもうまい。「古臭いおじさんがきく」ジャズをこんなに楽しいものだと思わせただけでもこの映画は大成功。映画を見ていても自然に体が揺れてくる。お約束のようなストーリー展開&キャラクター設定は、他の作品なら、二番煎じになってしまうところが、音楽のよさと楽しさで、余計なことはいいじゃないか状態に観客の気分を乗せ、最後まで突っ走って楽しく見れる。

気の弱い男の子に勇気を与えた前作同様、学校・教師からも親からも見離された「ど~しようーもないやつら=女子高生」たちに、自分たちもやればできると思わせてくれるんではないかと、単純に期待してしまう。この映画のように簡単に楽器が上手くなれるわけないし、そんなに世の中甘くないって思うけれども、それでも自分が楽しいと思えることに「出会える」幸せがいつか自分にもあるかもしれないと、映画を見た子どもたちが素直に思ってくれたら、それだけでもう超ラッキー。「青少年健全育成」なんて看板を下げた行政の事業よりよっぽど世の中のためになってる、間違いない!!!

むかしむかし~映画の感想㉗

2002年ごろ書いていた映画の感想

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スイミング・プール 

/ 主演  ジャーロット・ランプリング2004年
ヨーロッパ映画賞最優秀主演女優賞  (予告編はこちら) 
          
ラストシーン、サラがジュリーにさようならと手を振る場面がすべてを物語ってる。ジュリーはサラが隠し押さえつけていた自己の片割れ、そのジュリーを受け入れそしてさようならをすることでサラは、本当の自分を開き、生き生きと思うままに生きて行けることになった。

サラ・モートンの「こころの旅」の過程がゆっくりと描いてあり、その時々にサラがより美しく変化していく様子をシャーロット・ランプリングの美しさと重ねて見てしまう。あんなに柔らかく、自分自身にさようならと手をふれる、そのシーンを自分自身にも重ねたいと思ってみていた。

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2002年ごろ書いていた映画の感想

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至福のとき

/ 主演ドン・ジエ 監督 チャン・イーモウ(予告編はこちら

「あの子を探して」「初恋の来た道」の監督チャン・イーモウが贈る『しあわせ3部作の最終章』。いい映画でした。「赤いコーリャン」を書いた莫言の原作。北京の大都会で起こる御伽噺風のストーリー。盲目の身よりのない娘が、初めて人から大切にされることによって、一人で生きていく勇気を得ることができ、旅立つまでの物語。

「おとぎ話」と言うのは、登場人物があまりにも善意の塊のようだから…。自分たち自身、明日のわが身も知れない無職の人たちが、かわいそうな娘を思ってあれこれ面倒を見たりする、その様子が現実離れして見えるから。でも、その現実離れの御伽噺のようなストーリーで監督が伝えてくるのは「人から大切にされる」感覚がどれほど人を勇気づけるかという真実。

ラストシーンで、親切にしてくれた人たちの元を去り、杖をこんこんと鳴らしながら一人大都会の中を歩いていく少女の姿が映し出される。その画面の下半分はなぜか黒く塗りつぶされている。盲目の少女の世界をそのまま画面にしてあるように思う。が、世界が暗闇なのは少女にとってだけではない、とその画面を見ながら思った。

目が見える私たちは、世界を「目の当たり」に見ていると思ってはいるが、本当の所は「見えていない」と言う点で盲目の少女と同じかも知れない、いやそれ以上に見えていないのかもしれない。人の心や感情の動きとその人が発する言葉が裏腹なのは言うまでもないこと。映画のキャッチ「青い空は見えないけれど 輝く星も見えないけれど 私はあなたの心がみえます」、そのことを半分黒い画面で監督は伝えたかったのではないだろうか。

盲目の少女が一人で生きていくことを選んだラストシーンで、本当にそれでいいのかと心配になってしまったが、「暗闇の世界」を生きているのは彼女も私も同じだと気づいた時、「心配する」視点のあやうさにも気がついた。あの少女も私も同じ暗闇を歩いている、それならば彼女のように明るく笑いながら生きていこう、そう思えたのだった。

むかしむかし~映画の感想㉕

2002年ごろ書いていた映画の感想

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パイレーツ・オブ・カリビアン 

/ 主演 ジョニー・デップ オーランド・ブルーム 2003年
アカデミー賞主演男優賞(ジョニー・デップ)他 (予告編はこちら) 
          
お仕事からみで、見なくちゃいけないことになり、レンタルビデオを借りてきたものの、なかなか見れずにいた。自分の好みの映画じゃないし、主演のジョニー・デップも「濃ゅ~い顔」が嫌で・・・。

いやぁ、面白いから、見たらって子どもに薦めちゃったよ。見る前はや~な印象だったジョニー・デップがいい男に見えてきちゃったものね、変われば変わるもんだよ自分の印象も。何事も先入観念はいけませんです、はい。

海賊が盗んだ金貨には呪いがかけられていて、その呪いを解く鍵を持つ提督の娘とその娘が昔介抱した鍛冶職人が海賊に狙われる。ジョニー・デップは海賊同士の因縁をはらそうとしてその二人にからんでいく・・・。

「カリブの海賊、ってあれかぁ」、製作はディズニーなのね。だから海賊ものといいながらも至極健全。CGが見事、筋書きも面白い。超娯楽作ってこういうのを言うんだろうね。家族そろって見られるディズニー映画という言葉をけなすのではなく、誉め言葉で使っちゃう。

面白い映画って見ていたのに、結構深いとこもついてんじゃんって思ったのは、悪者海賊の死ぬシーン。オチがからむので詳しくは書かないけど、金や名誉やいろんなものへの欲に目がくらんでいると、本当の快楽は得られないよって、昔話によくあるオチではあるけれどそれでもやっぱしいいとこついてるよ、あのシーンは。

むかしむかし~映画の感想㉔

2002年ごろ書いていた映画の感想

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北京ヴァイオリン

/ 主演 タン・ユン(唐韻)、リウ・ペイチー(劉佩奇)他  2002年
/ 2002年サン・セバスチャン国際映画祭最優秀監督賞
最優秀主演男優賞(リウ・ペイチー)  (予告編はこちら

「中国の今はこうなんだ」素朴にそう感じた。古きよきアジアをとどめていたのは、遥か昔のことで開発と近代化の波にもまれ、貨幣経済によって様変わりしてしまった中国の印象が一番強かった。

ものがたりはヴァイオリンの名手の一人息子をどうにかして中央の晴れ舞台に押し出そうとする父と、大都会北京で「音楽は心の表現」となるために様々な出会いを通して、美しい音色を響かせられるまでの息子の心の交流を描いたもの。

中国の映画は、懐かしいせつなさにあふれていて、好きなんだけど、このところ繊細綿密な映画を見つづけたせいか、シナリオの荒っぽさが目に付いてしまう。近代化・お金お金といく流れに掉さして家族愛の美しさ大切さを訴えたいのだろうけど…。ちょっと流れが乱暴かな。キャラの設定もかなり紋きり調でイマイチ感情移入できない。

主演の息子役はヴァイオリンのコンクールでスカウトされたそうで、映画の中の曲もほとんどは彼が弾いている。演奏の時の表情と演技の時の表情にギャップがあるが素朴さを残していてはまり役。父親とまるで似てない風貌はストーリーを反映するもの。

役柄が音楽教授の家にその音楽教授の写真が飾ってあって、妙にその写真のポーズが撮られなれている、はまっているなぁと思ったら、教授役を演じているのは監督自身だった。写真うつりの堂々さ加減はマスコミに登場してきた監督の自信の現れだったのだと納得。

職にも就いている様子もないのに、やたら金遣いの荒い、いったい何で食べてるのかと思える美しい女性リリ役の女優さんが藤原紀香そっくり。

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2002年ごろ書いていた映画の感想

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真珠の耳飾りの少女

/ 主演 スカーレット・ヨハンセン 2004年
アカデミー賞3部門ノミネート サンセバスチャン国際映画祭受賞 (予告編はこちら) 
          
17世紀オランダの画家、フェルメールの描いた「真珠の耳飾りの少女」が生まれるまでの物語。家計を支えるため画家の家に住み込みの使用人として雇われたグリート、父譲りと思われる美的感覚の鋭さがいつしか画家の目に留まり、絵の具の調合を手伝うようになる。二人の関係を嫉妬する画家の妻や、狡猾なパトロン、すべては金のために動く妻の母、使用人に嫉妬する画家の娘・・・。

画家の絵のモデルとなったグリートが、完成間近の自分の絵をみて「心まで描くの!?」とつぶやく、その一言にすべてが凝縮されている。性的な関係を伴わない、芸術に自分自身をささげたもの同士の魂がふれあう官能。

ピアスって不思議なアクセサリーだと思う。自分と同世代ぐらいの人は、ピアスに抵抗のある人の方が多いんじゃないだろうか?私がピアスをあけてきたとき、夫は「そんなことをするひとだったんだぁ」と私のことを思ったらしい。「親からもらった身体に傷をつけて(ー_ー)!!」って感覚だったらしいけど、自分にしてみると、だからこそピアスを開けたんだよねぇ。親との境界線を引く意味とか、自分自身の意思で自分の身体も管理できる証みたいな意味も、ちょっとは込められているんだなぁ。

この映画では、ピアッシングの瞬間を画家とモデルの二人の魂の交流の瞬間として捉えている。性的な隠喩を読み取ろうと思えばいくらでも読めるけど、それは違うかもしれない。愛すればこそ、その愛の対象(モデル)に「手をつける」ことなく、美しくなっていく瞬間を永遠に絵の中に画家は残したのだろう。

グリートをモデルにして絵を描くよう画家に注文したパトロンは、その提案の奥にグリートへの欲望・下心を潜ませていた。完成した絵を手にしたパトロンが憎憎しげにその絵を眺める。描かれていたのは、大人の女へと変身する純粋な乙女の姿。その絵から少女の成長を大切に見つめ永遠の美に留めた画家の愛情を読み取る。芸術の理解者を装うものの、決して芸術そのものの高みへは手が届かないパトロンの嫉妬。

画家の妻も二人を怪しんで嫉妬する。画家である夫に、「どうして絵のモデルが私じゃいけないの?」と問い詰めた、その答えが痛い。「理解できないからだ」。美醜や老若など、越えられない差異はたくさんある。「理解できない」という差異は絶望的に深い谷のように存在する。違いを受け入れられずに嫉妬に苦しむパトロンや妻の姿が哀れに悲しい。

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2002年ごろ書いていた映画の感想

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踊る大捜査線 THE MOVIE2    レインボーブリッジを封鎖せよ!
/ 主演 織田裕二 柳葉敏郎 深津絵里 他2003年   (予告編はこちら

前作は漫画を読んでいるようなノリで楽しく見た記憶があった。TVの連続ドラマでもお笑い系のお話仕立てで面白かった。でも、それが人気が出てしまって、映画も大ヒットしてしまい、「予定が狂ってしまった」と制作側が一番そう思っているのかも、なんて思いながら見た。

本来、こんな感動巨編みたいなお話ではなくて、軽いノリのTVドラマのシナリオだったし、そういうつくりにあわせたキャスティングなのに、前作のヒットで、続編は前作を越えなくてはならないって重~い荷物を背負わされちゃったんだろうなぁ。すんごく、そこが残念。人に知られてないおいしいもののお店がマスメディアに紹介されて、お客が殺到し、味が落ちるって過程を映画でやっちゃったって感じ。TVで喜んでいた客層はきっとこの映画で、引いたろうなぁ、私も含めて。

面白いと思った唯一の点は、初めてきた女性管理官が、これでもかっていうほど人間味のない人に描かれていたこと。ああいうタイプは、世の中にいることはいるんだろうけど、それをあえて女というカテゴリーのせいのように描いたのは、さすがサンケイグループならではの作りかも。

「ああいう上司って嫌だよね」って共感する人も多いんじゃないだろうか。それを「女」に刷り込もうとするのは、見ていてとても悪意を感じる。その女性管理官は女性の社会進出のモデルのように警察機構の中で振舞っていて、それを本人も利用しながら、上昇志向ぎらぎらさせている。漫画のノリのようなわかりやすいキャラ設定は、だからシナリオ作家の思考が如実にでていて、というより、サンケイグループの上層部を見ながらシナリオを書いている作家の姿が思い浮かぶ。

ジェンダーフリーに対する逆風がこんなところにも現れているっていう見方が、唯一この映画の面白かったところでしょう。

でも、織田裕二ってちょっと好み。好きだった人に口の形と笑顔が似てるんだなぁ。

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