コンテンポラリーアートなのさ♪の巻
文化財曝涼あり、美術協会展あり、Art+1あり、準備てんてこまいの中、常陸太田アーティストインレジデンスの1年間の集大成となる常陸太田芸術会議にやっとこさこぎつけました。ラストスパートだったアーティストさんたち、お疲れさまだったね。
芸術会議最終土曜日の10月18日、水府支所での交流会にばたばたと参加。見知った顔が勢揃いで、まずは芸術会議についてのあれこれをコーディネータさんやアーティストさんの言葉で語っていただく。まだ作品は全くみれてないうちに、話を先に聞いちゃっていいものか、ってか聞いて分かるか?と思いつつ・・・。いやぁ、聞いて良かったです。ききながら、心に残った語り手の言葉をメモ(太字がそれです)。そして交流会翌朝、作品に会いに行った。
「アートを意識しないで生み出されている作品、クラフトなどを、現代アートの立場から、考察しつなげる、こと。」
予算がばりばりあるわけではない地方で、レジデンスの事業を行うコンセプトについてはディレクターのMさんの口からも何度も聞いている。それが実際に作品という形で私たちの目の前に出現した、その過程をかみ砕いて丁寧に語ってもらった、その端的な例が「高台の菊池さんち」という作品。
あるおばあちゃんのお宅、おばあちゃんが亡くなって、建物も取り壊しが決まっていた。おばあちゃんが趣味で作ったいろいろなクラフトが家の中に所狭しと飾ってある。田舎のおばあちゃんがよくやっていること、私なら「しょーもないものをつくって」と流してしまうような、失礼な言い方をして申しわけないえど、「手慰み」の数々。それをアーティストさんは作品として昇華して見せてくれた。
菊池さんちの玄関を入ると、板の間の板がくだけて宙づりになったシーンと出会う。とりこわされようとしている家そのもののよう。隣の和室の真ん中には、おばあちゃんとおじいちゃんが二人寄り添う写真が飾られている。その周りをかざるおばあちゃんのクラフトの数々。おばあちゃんがこの家で、暮らした年月、楽しく手を動かして「なにか」を作り、それはひとときの喜びの時間を中に閉じ込めて、誇らしげに家の天井からつるされ飾られ愛でられていた。そのいとおしき営みが行われて来た家とその主。
奥の間には、おばあちゃんの娘さんが、その精神を受け継ぎ、仲間達と作り続けいている陶製のじゅうづるさんがいっぱい。心の赴くまま、手を動かし、生み出されてきたじょうづるさんたちに、おばあちゃんのDNAは引き継がれていくのか。
奥の間をみて、帰ろうとしたら、会場の担当者がもう一つ作品があると案内してくれたのは、おばあちゃんの写真が飾ってある和室の奥の一間。暗幕で暗闇になった押し入れほどの広さの空間の中に、陶芸仲間の作品が展示され、そのひとつひとつを小さなLEDライトで照らし出している。
いわゆるアーティストがアート作品を作ろうとするとき、その生まれ出る作品は最初から「見られる」ことを内包してこの世に生み出される。そのことへの違和感。何かに感銘を受け、あるいは心が動かされて何かの表現として生まれ出るもの、原初のアートは見られることなど、、意識されずに生まれ出てきたはず。その原初のアート、そして原初のアートを生み出す「いわゆるアーティスト」ではない「普通の人々」に、アートを取り戻す、そういうことを目指して、常陸太田芸術会議って開かれたんだね。この暗闇の中、小さな光ではあるけれども、照らされている作品は、むかしむかしアートが生まれた瞬間を象徴しているように、見えてきた。
もう一度あの文章を。
「アートを意識しないで生み出されている作品、クラフトなどを、現代アートの立場から、考察しつなげる、こと。」
そうだったんだ、と深く納得。昨日交流会で耳にした言葉が作品と一緒に身体の中をかけ巡るような時間だった。
「わからないものを、わからないまま付き合って来て、『わからない』を持ちつつ一緒に作業をしているうちに、「お!」と挨拶するような関係性になること、それがコンテンポラリーアートなのよ」
芸術会議開催に至るまで、ほぼ一年間。交流会の冒頭ディレクターのMさんが言った言葉「長かった」ほんとに長かったよね。やっとやっとたどりつけた、ばたんきゅーってかんじの週末でした。
何をするの?誰がやるの、なんで?いろんな???を頭のうえにいっぱい貼り付けながら過ごして来た日々が、そうか、そうだったんだ、って納得した高台の菊池さんち。この台詞は助っ人アーティストというか、助っ人コーディネーターというか、本人もどういう肩書きなのかよく分からないと、苦笑しながら自己紹介していたSさんの言葉。言い得て妙とは、このことか!
最近続けて訪問した中之条と市原アートミックスで、なんとなく腑に落ちない感が残っていた。作品について、どう感じればいいのかな、という戸惑いというか。その腑に落ちない感じは、自分の中にある、作品への思いの投げかけ方の足りなさによるんではないかと、反省した。今日この日から、現代アートへの理解が、ほんの少しではあるけれど、深まったような感謝の気持ちも持ちつつ、超超いそがしかった10月は終わりました。たのしかった、ぜ!