2002年から2004年ごろ書いていた本の感想。
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「最後の家族」 村上龍 / 幻冬社 ¥1500
「最後の家族」ではひとつの家族の物語が父母と兄妹の4人の目で描かれている。ひとつの章で父が、次の章では母が、そしてまた兄がというように、四人がそれぞれの視点で家族の前で起こる出来事を描写していく形で物語は進められる。同じ出来事が、父から見た場合と母から見た場合ではまったく違って受け取られていること、こんなにも違っていることがまず驚かされる。同じ家に住みながら、本当のコミュニケーションのない家族の中に流れる、四つの微妙にずれた物語。
父は仕事人間、兄はあることから引きこもりとなって長く、家族にも暴力をふるうようになっていた。その兄が隣家のDVを目撃するところから始まる。隣家の妻を救いたいと願う引きこもりの兄は、はじめて「本当にしたいこと」を見つけて、引きこもり状態から抜け出ようとし、母も自分探しをはじめ、妹は「自立した大人」の友人との会話から自分の進む道を考え始める。
この物語のキーワードは「依存と自立」であり、「家」である。会社人間の父は高度成長期なら理想の父であったことだろう。しかし、時代が流れ、今は「寄らば大樹の陰的会社依存人間」でしかない。家族への愛を経済力による支配と勘違いしていた父がリストラされ自分の基を失うこと=「依存できない状態に追いやられること」で、否応なく自立を前提とした自分の弱さへの対峙を促される。
「引きこもり」は引きこもる兄とそれを許す母親との共依存関係そのものであったが、兄が引きこもりからの脱出を試みはじめ自立しようとすると、その回りの親密な関係の人間も同じように自立していく過程が、言葉ひとつひとつが痛いほど心に沁みてくる。
そしてもうひとつのキーワード「家」。
兄は隣家の妻に対して「これ以上できることはない」と他の目的を見つけて進んでいく。母は、引きこもりの兄との対応で得た「聴く」能力を生かす職場につくことに決め、妹は友人とイタリアへ旅立つ決意をする。父はコーヒー好きが嵩じた喫茶店を開くことに決める。居間で自分の決意をお互いに伝えあい選んだ道は、家を売ってそれぞればらばらに暮らすことであった。そしてその時が家族にとって初めての居心地のいい時間でもあった。それぞれが自立の道をつかんだ時、「家」は家族にとって不必要なものとなっていた。
家族は社会を構成する最小の単位である。家族と社会は相互に影響しあって変化し続けてきた。その変化の歴史が文化として私たちの中に無意識に刷り込まれている常識も形作っている。戦後社会の大きな変化、核家族化は敗戦とともに日本に入ってきたGHQに代表されるアメリカの戦略の賜物と言っても過言ではない。社会と家族は経済成長と核家族化という形で進んできた。核家族化と経済優先主義はどちらが鶏でどちらが卵だったのだろうか。核家族は郊外型住宅の需要を生み、その居住空間の変化に伴い、従来家の中で行なわれてきたことがどんどんアウトソーシングされて行く。
例えば「誕生」。昭和三十年代を境として、お産婆さんによる出産が、産婦人科の病院での出産に急激に変化してきた。「死」も同じように病院へ移って行く。結婚式は式場で、介護や見とりも家の外で行なわれるようになって行く。今、外食産業の隆盛によって、食事までもアウトソーシングされつつある。アウトソーシングというと抵抗があるかもしれない。ある意味では家族に本当に必要なものを厳選してきた道とも言える。そう言う「今」を映し出したのがこの本である。
「最後の家族」は従来の家族の終焉であり、新しい家族の誕生を予感させる。従来の家族とは同じ家に住み、同じ食事するなど寝食をともにすることで成り立ってきた。あるいは、同じ家に住むことに「依りかかって」本来の関係性を結ぶことを怠ってきたとも言うことができる。その共通の枠、物理的な意味でも枠としての家を失うことで再生していく家族。では、新しい家族とは?ばらばらに生きていても、家族と呼べるのか?
あらゆるもののアウトソーシングの果てに残された家族のエッセンス、それが関係性だとしたら、新しい家族の形はこの本のとおりかも知れない。ばらばらに「個」として生きる家族。
そして、関係性がより深く結べるとしたら、遠い将来、家族には血やDNAのつながりですら必要がなくなるのではないか。グループホームやコーポラティブハウスなどを求める動きはその始まりかもしれない。血としてのDNAのつながりではない、社会的なDNAとでも言うべきつながりによる家族。「同じ価値観」という社会的なDNAのつながりの元にひとつの家で暮らす血のつながりのない家族や、血がつながっていても、ばらばらに暮らす家族など・・・。
この四人は確かに「最後の家族」であった、そして「新しい家族」へと再生したのである。その家族はそれぞれが個として自立していなければ成り立たない時代となった。「個」として生きることは、孤独に生きることではないのは自明のことではあるが、依りかからず生きることはまた「さみしさ」を引き寄せることだろう。「さみしさ」は決してマイナスの感情ではないと言い切れるほどの強さを持ち得ないため、私たちは共依存を正当化する様々な習慣や言説を次々につくり出してきているのかもしれない。
「二十億光年の孤独」をうたった詩人のように、あまりのさみしさにくしゃみがでるか、さみしさくらいあってもいいじゃないかとあっけらかんと強がって見せようか?