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茨城新聞 私の時評(2004年)

昔のホームページ整理してアップしなおす日々。映画の感想が終わってこんどは新聞に書いたコラム。今から20年近く前のことなので、今読むと「うそっぽーーーい」とこっぱずかしい文章がならんでる。

以下は2004年当時、個人名を平気で出していたのね。新聞に載るのだからいいか、って思ったんだろうな。

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茨城新聞 私の時評
茨城新聞の日曜日に連載のコラム/時評。10人前後の県民がそれぞれの活動分野に関する話題を提供するもので年毎にメンバーが交代する。今年(4月から3月まで)その執筆を依頼された。1年に5回だというので書くことは嫌いではないからお受けすることにした。10年余市民活動をしてきた中で感じたことを、集大成なんていうのは大げさだけど、整理する意味も込めて書かせてもらおうと思う。

執筆者一覧
××さん 朗読グループ「はらんきょうの会」代表 明野町
××さん 水戸市民生委員・児童委員、元県警本部参事官 水戸市
××さん 水戸市消費生活センター所長 水戸市
××さん 経営コンサルタント 鉾田町
××さん つくば研究支援センター・インキュベーションマネージャー つくば市
××さん NPOウィラブ北茨城代表理事 北茨城市
私 まいづる塾長 常陸太田市
××さん NPO波崎未来フォーラム理事長 波崎町
××さん 国際交流ボランティア「フレンドリーあんず」代表 日立市
××さん 県保健体育課スポーツ振興室長

私担当分
2004年5月16日
2004年7月25日
2004年10月10日
2004年12月19日
2005年3月6日

茨城新聞 私の時評 3月6日掲載   「楽しみ」を「喜びに」―――生涯学習のすすめ
 「過剰なお客様扱い」あるいは「ただで使えてラッキーな人たち」、いわゆるボランティア活動で出かけると今でもそのような対応をされて戸惑うことがあります。今までになかった考え方としての言葉が「あぁ、こういうことなんだ」と一人一人の気持ちの中で腑に落ちるまでには長い時間が必要とされるからでしょう。

 まちづくり活動の仲間とは他に、気のあう仲間たちとハンドベルの演奏をするようになって数年になります。小学校の保護者会や老人介護施設でのお楽しみ会など、演奏に来て欲しいと声をかけていただくことが多くなりました。仲間たちはそれぞれに仕事を持っており、時間や都合をやりくりして集ってくれます。もちろん報酬や謝礼が欲しくて行くのではありませんが、自分たちの演奏の楽しみだけで行くのでもありません。では何のために忙しい合間を縫って演奏に出かけるのか?

 演奏そのものも楽しんでいるのはいるものの、それよりもその場に来合わせてくれた人たちとの気持ちの交流や、職員の方たちの暖かさな対応が、逆に私たちに力をくれるのです。だから、「ただで使えてラッキーな人たち」という対応を受けると、せっかく出かけていった仲間たちみんな気持ちがしぼんで帰ることになってしまいます。

 また、同じ場にいた聴き手の方たちが、ほんの少しでも気持ちが安らいだり楽しんでいただけたかもしれないという思いが、私たちの喜びになる。個人的な「楽しみ」が他者のためになるという「喜び」に変わる幸せをいただいているのがボランティアなのでしょう。ですから、「ただで来てもらって申し訳ない」という過剰なお客様扱いも不要です。

 ボランティアといいましたが、これらの活動は生涯学習といわれるものです。生涯学習にはまちづくり活動のような「地域の課題解決型」とハンドベルの演奏のような「趣味型」の2つあり、趣味の延長としての生涯学習は、課題解決型よりも最初の一歩を踏み出しやすい活動といえるでしょう。全国的に市町村合併が進み、それに伴う行政サービスの低下が心配されていますが、ハンドベルの例のように生涯学習はその心配を補って、なおかつ自分自身の喜びとなる可能性を持っています。また、「遠くの親戚より近くの他人」と言われていましたが、地域社会が揺らいでいる今は、「近くの他人=地域社会」の他にも人のつながりを作っていかなくてはなりません。趣味や、同じ問題意識をもとにする生涯学習は人と人を結ぶ力を持っています。

 そういえば、正月ぼ~っとTVを見ていたら「生涯学習」と連呼するCMが目立ちました。「you can」と呼びかけるそのCMを見かけるたびに、「WE CAN」のほうがふさわしいのにと思ったものです。「ボランティア」や「生涯学習」といった言葉を耳にして誰もが同じ概念を持てるよう、「今年こそWE CAN生涯学習!」始めませんか?

茨城新聞 私の時評 5月16日掲載   「ふるさと大好き」をはじめよう
一番上の子の小学校入学に備え、通学路を覚えようと子どもと一緒に歩いていた時です。路地よりさらに細い、軒の間をすり抜けるような小道を歩いていると、自分が小学校に通っていた子ども時代にタイムスリップするようでした。常陸太田は昔の通りの雰囲気や町並がまだ多く残っています。通りがかりに出会う人は「こんにちは、暖かなお天気ですね」と気さくに声をかけてくださる…。まちの雰囲気と住む人の暖かさを知り、常陸太田がその時から好きになったのです。

まいづる塾はまちづくりの市民団体として平成2年に発足しました。まちづくりの最初の一歩は住んでるまちが好きな人を増やすことです。そのために最も効果的なのは「歩いて知る」こと、塾創設以来「まちウォッチング」という事業を欠かさず行ってきました。常陸太田のすばらしい「ひと・もの・こと」を四季折々に歩いて訪ねるのですが、参加者から、「長く地元に住んでいながら知らなかった」という感想をよく耳にします。

 青い鳥の昔話を例にあげるまでもなく、幸せ・心地よさというのはなかなか気がつきにくいものなのでしょう。さらに言えば、失われたときに初めて気がつくことも多いのかも知れません。効率性・利便性という価値観に押され、地方都市から元気が失われてきつつある中、都会の大イベントや近郊の大きな祭に関心が奪われ地域の祭の開催は難しくなってきています。そのような時、地元を愛する若い人たちにめぐりあうことが続きました。太田まつりでは、中学生のボランティアの参加が激増しています。準備作業や後片付といった決して華やかではない作業に、「もくもくと」ではなく、楽しげに遊び感覚で取り組む様子を見ていると、私たちまで元気になってきます。また、地元出身のミュージシャンやダンスインストラクターとして活躍する若者たちもこの数年地元の祭のために大きな力を発揮してくれています。

 また、「ちん電を守る高校生の会」の活躍を新聞紙上でご覧になった方も多いと思います。地元の活力のひとつが失われそうになった時、最初に立ち上がったのは高校生でした。署名運動に始まり、学習会・陳情、そして夏にはちん電祭の開催を計画中と聞きます。進行もすべて高校生たちによって行われた学習会に参加して、自分たちのできることを積み重ねることによって何かを変えようとするその行動力に感動しました。ひるがえって、自分たち大人は何をしてきただろうかと、自分に問わずにはいられませんでした。
ふるさとを好きになる人を増やすことは、まちづくりの最初の一歩ではあります。そして次のステップは、ふるさとに対する想いを何らかの行動で表すことです。がんばっている高校生をはじめとした若者と一緒に、大人が何かを始めることが今求められているのです。手の中にある幸せに気づき、失わないために。

茨城新聞 私の時評 7月25日掲載   地域社会と友達のつくり方
「友達ってどうやったら作れるんだろう?」、30歳近くなってそんなことを悩むとは思ってもいなかった。小・中学校から高校時代を振り返ってみても、友達は作ろうと思ってできたのではなく、いつの間にか気の合う仲間がそばにいたのだった。結婚で生まれ育った土地を離れ、見知らぬ町に住むことになり、ひとりの知り合いもいない状況に途方にくれた。出産によって「赤ちゃん」という共通項や話のきっかけを得て、公園デビューも順調にしたものの、「表面上のおつきあい」と言ってしまっては申し訳ないが、心に抱えたもやもやなどを話し共感してもらえる友達関係はなかなかできず、「友達って作ろうと思うと難しい…」と文頭の言葉になったのだった。

PTAや子ども会の役員をやりたがらない人の方が多いと聞く、理由は「大変だから」。確かに何かお役目をいただくと、時間はとられるし気がもめることもある。でも、そうやって過ごしてきた時間を後で振り返ると、大変だったことの大半はどこかに行ってしまい、逆に話せる友達や知り合いが大勢いることに驚かされる。友達という宝物は子どものころも無意識にこうやって作ってきたのだった。否、そのように過ごしてきた時間の贈り物が友達なのかもしれない。

学校のように必然的に関わらねばならない活動の他にも目を向けるとその宝物はさらに広がっていく。結婚後、話し相手のいない寂しさや心細さ、仕事をやめ社会とつながりも失ってしまったような閉塞感を抱えていた頃、何かはわからない「何か」が欲しくて、あるいは楽しみを求めて、子どもを抱えいろんなところに出かけていったものだった。そこで出会った人たちと子どもの劇場を立ち上げたり、まいづる塾で活動してきた10年余が私を「常陸太田市民」にしてくれたのだと思う。

今は、まちを歩けば顔見知りの方が声をかけてくださり、買い物に行ってもお店の方と話が弾む。♪そんな時代もあったの♪と懐かしい歌を鼻歌で歌えるくらい友達にも恵まれている。地域社会の崩壊と言う言葉を耳にするようにして久しいが、地域社会は勝手に崩壊したわけではない。作ることが難しい友達のように、地域社会もその地域に住む人同士の丁寧な関わり方や時間がくれる賜物として初めてそこに「在る」ことに人が気づかなかっただけなのだ。だとしたら、自分にとっては地域社会の崩壊は無縁だと言える。パソコンを基礎から上級まで教えてくれる仲間、ビデオの上手な撮りかたや心が届く話し方を教えてくれる友達、笑い話のように「80過ぎたら一緒に温泉めぐりをしようね」と言い合う友もいる。私をつつむ「現在」の豊かで暖かい関係は、私の「過去」の賜物であり、未来の「夢」である。そしてそれらはつながった時間の中にしかありえない。その時間をさかのぼりスタートはどこだったのかと訪ねると、閉塞感を抱え孤立していた頃にたどり着く。寂しさや閉塞感は恐れるにたりない。恐ろしいのは閉塞感や寂しさを感じられないことのほうである。なぜなら寂しさや大変さは自分をどこか違う場所へいざなうきっかけやサインになりうるから。

ベビーカーに赤ちゃんを乗せ、もう一人のお子さんの手をとり、リュックにはいっぱい荷物をつめて大変そうに歩いているお母さんを見かけると思わず心の中でエールを送ります、「豊かな時の流れを捕まえてね」と。

茨城新聞 私の時評 10月10日掲載  地図を持ってまちにでよう! 

「回覧板でぇ~す」という声とともにまた新しい情報が届く。市報・お知らせ版などさまざまな情報が届く回覧板、今日はどんなお知らせかと楽しみに手にするのは私ばかりではないでしょう。市役所の発行する広報誌は事業概要の説明や報告がもっぱら。広報という性格上仕方のないことではありますが、せっかく回覧板という市民に直接届く情報媒体を持ちながら、もっと積極的に市への関心を高めることに使えないものだろうかといつも思っていました。常陸太田市では、その回覧板に数年前から「フォンズ」という生涯学習情報誌が加わりることになったのです。

「フォンズ」は一風変わった情報誌です。行政が発行するのですが、写真撮影や記事はもちろん、時にはレイアウトをするのも一般市民です。20名弱のメンバーがフォンズネットワークという名前で編集しており、その一員に私も当初から加わっています。新しい情報誌の発行に伴い、一番に訴えたかったのは「主張」する広報誌になりたいということでした。主張する内容は「常陸太田市の素晴らしさ」。市民が一歩足を踏み出すような面白そうな視点と切り口で常陸太田市のよさを紹介したい、そして「フォンズ」をきっかけに自分で常陸太田市の素晴らしさを発見する市民がひとりでも多く生まれるようにしたい、と。

常陸太田市は巨峰で有名ですが、ほぼ同じ時期の秋の味覚の梨もあります。近隣の市町村の人に会うたびに、農家が丹精込めて育てた枝で食べごろになるまで時期を待った果物のおいしさを話したり、直接葡萄・梨農家にご案内することもあります。ところが地元の方でも農家に買いに行かない/行けない人も多いのです。農家へ直接買いに行きたくても「どこへ行ったらいいのか」と迷いあきらめてしまうのでしょう。

「フォンズ」では去年は葡萄、今年は梨を特集しました。農協の葡萄部会や梨部会の方々のご協力をいただき梨・葡萄のプレゼントも行いました。行政が発行する広報誌でプレゼントをするのは珍しいことではないでしょうか。このような「変わった情報誌」ならではの取り組みは、編集に携わる市民の意図ややる気を支えることをモットーにしている担当課・生涯学習課の理解のうえに初めて成り立つのです。

今年のプレゼント当選者から、あるお礼状が届きました。そこには、常陸太田市へ都会から移ってきて田舎だとばっかり思っていたが自然の素晴らしさや市内の商店の方と交流が生まれたことや、プレゼントをきっかけに、自分で小さな和菓子店を探し当てた喜びがつづってありました。「フォンズ」発行の時の願いが実を結んだ文面に、喜びはひとしおでした。

一歩踏み出すと、地域には素晴らしい人や自然が発見できます。今まで目には入っていてもその素晴らしさを見つけ出せないでいた宝物。地域資源という私たちのまわりに溢れる宝物、フォンズはその宝の地図のようなものです。でも、宝の地図はあくまで地図でしかありません。その地図を頼りに宝物を改めて発見するのは、地図を持って行動し始める、市民一人一人なのです。

茨城新聞 私の時評 12月19日掲載   自然な生き方を考えなおそう  

「自然」という言葉ほど不自然な言葉はありません。春になると桜が咲き、時期が過ぎるとその花が散ること、猫が小鳥やねずみのような小さな生き物を狩って遊ぶというようなことは文字通り自然なことでしょう。でも、この言葉が人間の社会の中に用いられるとき、一転してそれは悩ましいものとなってしまいます。たとえば、「年頃になったら、自然に男と女が惹かれあい」「結婚するのが自然」など。自然は「普通」や「当たり前」という言葉と同じように用いられ多用されてきました。

人は物事を考えるときに、二つのことを対比して考えがちです。白黒をつけるという言葉に代表されるように二つの価値観を比較してそのどちらかをよしとする考え方に自然をあてはめると、反論を許さない強さが得られます。なぜなら、散らない花はないのですから。人はみな安心・快・幸福を求めて生きています。自然であると肯定されることで、それらが簡単に手に入るのです。つまり、人の行動に対して言う自然というくくり方は安心を求める人間が求めた考え方になるのです。

自然という言葉は、自然であると言い表された物事を、そのことが正しいかどうかそれ以上さかのぼって考える必要がないと言い切っているに等しい響きも持っています。ねずみが猫を狩ることがないように。人が生きていくうえでなんらかの判断を必要とされる場面に出会ったとき、たいていの人はその判断の基準として社会規範に沿っているかどうかを、無意識のうちに重ね合わせてみています。そして、規範通りの選択を「自然」なこととして選ぶのです。それが「男女が惹かれあい結婚することが自然である」というような用いられになってきました。社会の多くの人たちが選ぶ価値基準を規範といい、それを肯定するのに大変便利な言葉として自然は人間の中で用いられているのです。

しかし、規範は判断の基準となるとともに、判断を限定する力も持っています。人は判断を自分で下したかのように思っていますが、実は規範に寄り添うことによって、自ら考えることをやめているに過ぎません。大事なことは、規範は多くの人が寄り添ってはいますが、それがすべてではないこともあるということです。

同性同士の結婚が認められる国ができてきたように、「自然だ」とした規範がもはや意味をなないほど価値観が複雑になってきている時代には、社会規範に寄り添い、依存して思考を捨てるのではなく、自分が欲する生き方の基準はなんだろうと常に考えながら生きていくことが求められているのかもしれません。考えに考えたぬいた果てにたどり着く場所は、もともと今までの社会にあった規範と同じところかもしれません。しかし、その考えるという過程を抜きにしていることが、今の社会の乱れの下にあるように思えてなりません。茨城県でも起こってしまった信じられないような事件を耳にして、考えることの大切さを思いました。


むかしむかし~映画の感想㉛

2002年ごろ書いていた映画の感想

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チョコレート

/ 主演・ハル・ベリー 2002年
/ アカデミー賞主演女優賞    (予告編はこちら

アカデミー賞初の黒人の主演女優賞、とびっきりの恋愛なんてうたい文句で、期待して出かけたんだけど、そんなバカなってスクリーンに向かって言いたかったよ。

喪失を受け入れるのは難しいって、「まぼろし」の感想のところで書いたけど、この映画のもう1人の主役ハンクが失った愛=自殺した息子と、親から得ることのできなかった愛の代用品としてハル・ベリー演じるレティシアを「救ってあげる」お話でした。

「愛って何ですか?」って高名なT大のU教授に質問した時の返事を思い出した。「愛は相手を自分の思うがままに支配しようとする暴力的な感情のことです」きっぱりと言ってたけど、ハンクの愛もレティシアの愛も、そのまんま。

喪失感を受け入れられず、何か代用品で心の穴を埋めようとした二人、似たもの同士で引き寄せあった2人が、「愛」ではないもので結び付けられた自分たちを自覚したららしいラストはどう読めばいいんだろう?「とびっきりの恋愛」なんてキャッチをつけた奴はあれをハッピーエンドだとでも思ったんだろうか?

むかしむかし~映画の感想㉚

2002年ごろ書いていた映画の感想

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山の郵便配達

/ 主演 トン・ルゥジュン(滕汝駿) リィウ・イェ(劉燁)
(予告編はこちら

仕事でほとんど家にいることのない父と、不在がちの父になじめない息子を描いていると言う点で今の日本の仕事人間の父親像と重なる部分が多く、「父」という立場について思いを至らせるのにうってつけの映画だと思う。

友達のある若い父親が、仕事が忙しすぎて子どもとかかわる時間が十分に取れず、いいわけともつかないが「子どもとかかわる時間は量ではなくて質」と言っていた。時間もままならない父親はそう思わずにはいられないというのが本当だろう。しかしどれほど「質」と言っても、なじむまでも行かないかかわりのための時間の量の少なさは、質だけでは補えきれない。補えきれないまま、父との微妙な距離感もそのままに子どもは大きくなっていく。そうやって大きくなった子が父の仕事のあとを継ぐことになったところから映画はスタートする。

父が仕事に従事している間、家族のことを忘れていたわけでもなく、父に愛されていなかったわけでもないと子どもが気がつくためには、父と子がこの映画のように向き合う時間が必要なのだろう。あるいは、実際に向き合うのではなく、父の視点で父自身の人生を振り返ることができたら・・・。つまり、父親という役目の負っているものを子どもが自身の中に取り込むことができたら、父という役目(家にいて家族とともに時間を過ごすことのできない立場)ゆえの家族を大切に思う気持ちを理解することができるのではないか。

同行する犬の名前が「次男坊」である理由を思うだでけでも、父の気持ちは痛いほど想像できる。そのような思いを持ちながら、しかし仕事のために家族と離れなければならず、そして家族から離れて暮らす心のうち・思いを口に出して表現することのできない「父」という存在の切なさに胸が痛む。ラストシーン、次男坊が父に挨拶をしてから息子の山行に同行していく姿、見送る父の姿は、何度見ても目が潤んできてしまう。

むかしむかし~映画の感想㉙

2002年ごろ書いていた映画の感想

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talk to her 

/ 主演 ハルビル・カマラ レオノール・ワトリング 他
2002年アカデミー賞最優秀脚本賞 
ゴールデングローブ賞最優秀外国映画賞 (予告編はこちら

事故により植物状態・昏睡状態に陥ってしまった女性アリシアを献身的にケアする看護士、ベニグノ。競技中の事故で昏睡状態に陥ってしまった女闘牛士リディアの恋人マルコは、ベニグノのようにリディアの看護をすることができず、ふさぎこんでいた。

同じ病院で同じような境遇の女性を看護することになった二人の男たちには、いつしか深い友情が芽生えていった。しかし、ベニグノの妄信的な介護は思わぬ事態をまねく。
(あらすじはこちら)

「究極の愛」だというふれこみだった。介護なんて硬い言葉でなく、「ふれるさわるなでる」といった人と人の身体的なコミュニケーションのすばらしさを描いているのだ、と思って見に行った。

だけれども、本当にこれが「究極の愛」なんだろうか?ベニグノのした行為を思うと、嫌悪感しか浮かばない。植物状態を奇跡的に脱したアリシアには、昏睡中に自分に起こったことは告げられていない。「究極の愛」かどうかを決めるのは彼女のはずではないのか?あれを「愛」と呼ぶのはベニグノの側の論理であって、そこに相手・アリシアの意思はまったく考慮されてない。家父長制の中で一方的に「愛」と称され支配を受けてきた、そのことを今変えようとしているのに、こんな映画が「究極の愛」って呼ばれるなんて・・・。

むかしむかし~映画の感想㉘

2002年ごろ書いていた映画の感想

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スイング・ガールズ 

/ 主演  上野樹里ほか  (予告編はこちら
ウォーターボーイズで名を上げた矢口史靖の期待の新作。前作が男の子、今回は東北の落ちこぼれ女子高生を描いている。

前作同様音楽の使い方がとてもうまい。「古臭いおじさんがきく」ジャズをこんなに楽しいものだと思わせただけでもこの映画は大成功。映画を見ていても自然に体が揺れてくる。お約束のようなストーリー展開&キャラクター設定は、他の作品なら、二番煎じになってしまうところが、音楽のよさと楽しさで、余計なことはいいじゃないか状態に観客の気分を乗せ、最後まで突っ走って楽しく見れる。

気の弱い男の子に勇気を与えた前作同様、学校・教師からも親からも見離された「ど~しようーもないやつら=女子高生」たちに、自分たちもやればできると思わせてくれるんではないかと、単純に期待してしまう。この映画のように簡単に楽器が上手くなれるわけないし、そんなに世の中甘くないって思うけれども、それでも自分が楽しいと思えることに「出会える」幸せがいつか自分にもあるかもしれないと、映画を見た子どもたちが素直に思ってくれたら、それだけでもう超ラッキー。「青少年健全育成」なんて看板を下げた行政の事業よりよっぽど世の中のためになってる、間違いない!!!

むかしむかし~映画の感想㉗

2002年ごろ書いていた映画の感想

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スイミング・プール 

/ 主演  ジャーロット・ランプリング2004年
ヨーロッパ映画賞最優秀主演女優賞  (予告編はこちら) 
          
ラストシーン、サラがジュリーにさようならと手を振る場面がすべてを物語ってる。ジュリーはサラが隠し押さえつけていた自己の片割れ、そのジュリーを受け入れそしてさようならをすることでサラは、本当の自分を開き、生き生きと思うままに生きて行けることになった。

サラ・モートンの「こころの旅」の過程がゆっくりと描いてあり、その時々にサラがより美しく変化していく様子をシャーロット・ランプリングの美しさと重ねて見てしまう。あんなに柔らかく、自分自身にさようならと手をふれる、そのシーンを自分自身にも重ねたいと思ってみていた。

むかしむかし~映画の感想㉖

2002年ごろ書いていた映画の感想

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至福のとき

/ 主演ドン・ジエ 監督 チャン・イーモウ(予告編はこちら

「あの子を探して」「初恋の来た道」の監督チャン・イーモウが贈る『しあわせ3部作の最終章』。いい映画でした。「赤いコーリャン」を書いた莫言の原作。北京の大都会で起こる御伽噺風のストーリー。盲目の身よりのない娘が、初めて人から大切にされることによって、一人で生きていく勇気を得ることができ、旅立つまでの物語。

「おとぎ話」と言うのは、登場人物があまりにも善意の塊のようだから…。自分たち自身、明日のわが身も知れない無職の人たちが、かわいそうな娘を思ってあれこれ面倒を見たりする、その様子が現実離れして見えるから。でも、その現実離れの御伽噺のようなストーリーで監督が伝えてくるのは「人から大切にされる」感覚がどれほど人を勇気づけるかという真実。

ラストシーンで、親切にしてくれた人たちの元を去り、杖をこんこんと鳴らしながら一人大都会の中を歩いていく少女の姿が映し出される。その画面の下半分はなぜか黒く塗りつぶされている。盲目の少女の世界をそのまま画面にしてあるように思う。が、世界が暗闇なのは少女にとってだけではない、とその画面を見ながら思った。

目が見える私たちは、世界を「目の当たり」に見ていると思ってはいるが、本当の所は「見えていない」と言う点で盲目の少女と同じかも知れない、いやそれ以上に見えていないのかもしれない。人の心や感情の動きとその人が発する言葉が裏腹なのは言うまでもないこと。映画のキャッチ「青い空は見えないけれど 輝く星も見えないけれど 私はあなたの心がみえます」、そのことを半分黒い画面で監督は伝えたかったのではないだろうか。

盲目の少女が一人で生きていくことを選んだラストシーンで、本当にそれでいいのかと心配になってしまったが、「暗闇の世界」を生きているのは彼女も私も同じだと気づいた時、「心配する」視点のあやうさにも気がついた。あの少女も私も同じ暗闇を歩いている、それならば彼女のように明るく笑いながら生きていこう、そう思えたのだった。

むかしむかし~映画の感想㉕

2002年ごろ書いていた映画の感想

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パイレーツ・オブ・カリビアン 

/ 主演 ジョニー・デップ オーランド・ブルーム 2003年
アカデミー賞主演男優賞(ジョニー・デップ)他 (予告編はこちら) 
          
お仕事からみで、見なくちゃいけないことになり、レンタルビデオを借りてきたものの、なかなか見れずにいた。自分の好みの映画じゃないし、主演のジョニー・デップも「濃ゅ~い顔」が嫌で・・・。

いやぁ、面白いから、見たらって子どもに薦めちゃったよ。見る前はや~な印象だったジョニー・デップがいい男に見えてきちゃったものね、変われば変わるもんだよ自分の印象も。何事も先入観念はいけませんです、はい。

海賊が盗んだ金貨には呪いがかけられていて、その呪いを解く鍵を持つ提督の娘とその娘が昔介抱した鍛冶職人が海賊に狙われる。ジョニー・デップは海賊同士の因縁をはらそうとしてその二人にからんでいく・・・。

「カリブの海賊、ってあれかぁ」、製作はディズニーなのね。だから海賊ものといいながらも至極健全。CGが見事、筋書きも面白い。超娯楽作ってこういうのを言うんだろうね。家族そろって見られるディズニー映画という言葉をけなすのではなく、誉め言葉で使っちゃう。

面白い映画って見ていたのに、結構深いとこもついてんじゃんって思ったのは、悪者海賊の死ぬシーン。オチがからむので詳しくは書かないけど、金や名誉やいろんなものへの欲に目がくらんでいると、本当の快楽は得られないよって、昔話によくあるオチではあるけれどそれでもやっぱしいいとこついてるよ、あのシーンは。

むかしむかし~映画の感想㉔

2002年ごろ書いていた映画の感想

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北京ヴァイオリン

/ 主演 タン・ユン(唐韻)、リウ・ペイチー(劉佩奇)他  2002年
/ 2002年サン・セバスチャン国際映画祭最優秀監督賞
最優秀主演男優賞(リウ・ペイチー)  (予告編はこちら

「中国の今はこうなんだ」素朴にそう感じた。古きよきアジアをとどめていたのは、遥か昔のことで開発と近代化の波にもまれ、貨幣経済によって様変わりしてしまった中国の印象が一番強かった。

ものがたりはヴァイオリンの名手の一人息子をどうにかして中央の晴れ舞台に押し出そうとする父と、大都会北京で「音楽は心の表現」となるために様々な出会いを通して、美しい音色を響かせられるまでの息子の心の交流を描いたもの。

中国の映画は、懐かしいせつなさにあふれていて、好きなんだけど、このところ繊細綿密な映画を見つづけたせいか、シナリオの荒っぽさが目に付いてしまう。近代化・お金お金といく流れに掉さして家族愛の美しさ大切さを訴えたいのだろうけど…。ちょっと流れが乱暴かな。キャラの設定もかなり紋きり調でイマイチ感情移入できない。

主演の息子役はヴァイオリンのコンクールでスカウトされたそうで、映画の中の曲もほとんどは彼が弾いている。演奏の時の表情と演技の時の表情にギャップがあるが素朴さを残していてはまり役。父親とまるで似てない風貌はストーリーを反映するもの。

役柄が音楽教授の家にその音楽教授の写真が飾ってあって、妙にその写真のポーズが撮られなれている、はまっているなぁと思ったら、教授役を演じているのは監督自身だった。写真うつりの堂々さ加減はマスコミに登場してきた監督の自信の現れだったのだと納得。

職にも就いている様子もないのに、やたら金遣いの荒い、いったい何で食べてるのかと思える美しい女性リリ役の女優さんが藤原紀香そっくり。

むかしむかし~映画の感想㉓

2002年ごろ書いていた映画の感想

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真珠の耳飾りの少女

/ 主演 スカーレット・ヨハンセン 2004年
アカデミー賞3部門ノミネート サンセバスチャン国際映画祭受賞 (予告編はこちら) 
          
17世紀オランダの画家、フェルメールの描いた「真珠の耳飾りの少女」が生まれるまでの物語。家計を支えるため画家の家に住み込みの使用人として雇われたグリート、父譲りと思われる美的感覚の鋭さがいつしか画家の目に留まり、絵の具の調合を手伝うようになる。二人の関係を嫉妬する画家の妻や、狡猾なパトロン、すべては金のために動く妻の母、使用人に嫉妬する画家の娘・・・。

画家の絵のモデルとなったグリートが、完成間近の自分の絵をみて「心まで描くの!?」とつぶやく、その一言にすべてが凝縮されている。性的な関係を伴わない、芸術に自分自身をささげたもの同士の魂がふれあう官能。

ピアスって不思議なアクセサリーだと思う。自分と同世代ぐらいの人は、ピアスに抵抗のある人の方が多いんじゃないだろうか?私がピアスをあけてきたとき、夫は「そんなことをするひとだったんだぁ」と私のことを思ったらしい。「親からもらった身体に傷をつけて(ー_ー)!!」って感覚だったらしいけど、自分にしてみると、だからこそピアスを開けたんだよねぇ。親との境界線を引く意味とか、自分自身の意思で自分の身体も管理できる証みたいな意味も、ちょっとは込められているんだなぁ。

この映画では、ピアッシングの瞬間を画家とモデルの二人の魂の交流の瞬間として捉えている。性的な隠喩を読み取ろうと思えばいくらでも読めるけど、それは違うかもしれない。愛すればこそ、その愛の対象(モデル)に「手をつける」ことなく、美しくなっていく瞬間を永遠に絵の中に画家は残したのだろう。

グリートをモデルにして絵を描くよう画家に注文したパトロンは、その提案の奥にグリートへの欲望・下心を潜ませていた。完成した絵を手にしたパトロンが憎憎しげにその絵を眺める。描かれていたのは、大人の女へと変身する純粋な乙女の姿。その絵から少女の成長を大切に見つめ永遠の美に留めた画家の愛情を読み取る。芸術の理解者を装うものの、決して芸術そのものの高みへは手が届かないパトロンの嫉妬。

画家の妻も二人を怪しんで嫉妬する。画家である夫に、「どうして絵のモデルが私じゃいけないの?」と問い詰めた、その答えが痛い。「理解できないからだ」。美醜や老若など、越えられない差異はたくさんある。「理解できない」という差異は絶望的に深い谷のように存在する。違いを受け入れられずに嫉妬に苦しむパトロンや妻の姿が哀れに悲しい。

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