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むかしむかし、人知れずつくっていたHP③

第3回 私にとっての<自然>

 今、<自然>という言葉ほど不自然な言葉はない。春になると桜が咲き、時期が過ぎるとその花が散ること、猫が小鳥やねずみのような小さな生き物を狩って遊ぶというようなことは文字通り自然であろう。しかし人間の社会の中に用いられるとき、一転してそれは悩ましいものとなる。たとえば、「年頃になったら、自然に男と女が惹かれあい」「結婚するのが自然」で、「結婚したら自然に子どもが授かる」など。自然は普通や当たり前という言葉と同じように用いられ多用されてきた(A)。

 人は物事を考えるときに二項対立という方法をよく使う。白黒をつけるという言葉に代表されるように二つの価値観を比較してそのいずれかをよしとする考え方に自然をあてはめると、反論を許さない強さをもつ。なぜなら、散らない花はないのであるから。前回のテーマでも述べたように人間は安心・快・幸福を求めて生きている。自然ではない、と否定されることは不安を呼び起こし、逆に自然であると肯定されることで、それらが簡単に手に入るのである。つまり、自然というくくり方・判断は安心を求める人間が求めた概念である(B)。

 また、自然という言葉は、自然であると言い表された事物を、そのことが正しいかどうかそれ以上さかのぼって検証する必要性がないと言い切っているに等しい響きも持っている。ねずみが猫を狩ることがないように。生きていくうえで何か判断を要する場面に出会ったとき、たいていの人はその判断の基準として社会規範に沿っているかどうかを、無意識のうちに重ね合わせてみている。そして、規範通りの選択を「自然」なこととして選ぶ。それがたとえば「男女が惹かれあい結婚することが自然である」というような用いられ方になる。このように社会の多数を占める人たちが選ぶ価値基準を規範といい、それを肯定するのに大変便利な言葉として自然は用いられているのである。しかし、規範は判断の基準となると同時に、判断を限定する力も持っている。人は判断を自分で下したかのように思っているが、実は規範によって縛られているに過ぎない。大事なことは、規範は多くの人が選び、また縛られるものではあるが、真理ではないのである。自然は規範の正当性が問われることがないように使われてきた。規範の正当性が問われることは社会の成り立ちを脅かしかねないからである(C)。

 しかし、同性同士の結婚が認められる国ができてきたように、自然と称する規範がもはや意味を成さないほど価値観が複雑多様になってきている。そのような時代に、社会規範によりそい・依存して思考を捨てるのではなく、自分が欲する生き方の基準はなんだろうと考えながら生きていくこと(D)、それが自分にとっての自然な生き方である。
講評 
 「自然」という概念をめぐって、その意味と問題を考える作品です。Aの部分で「自然」の一般的用法を取り出し、そのうえで、Bの部分において、人間の安心を求める気持ちに自然の意味本質をおく展開は、説得力のある独自のものになっています。ここには、「自然」が世界そのもののあり方としてあるのではなく、人間のあり方に相関して(安心を求める気持ちに答えるように)成立した概念であることがとられられており、鋭さを感じます。このあたりの論述は、テキスト(「『考える』ための小論文」)の59ページにある「本質観取」の好例だといえるでしょう。

 また、Cの部分では、それまでの論述をさらに進めて、自然という概念の問題点が述べられています。これはテーマを独自に問い進め、問題を見つけ出す小論文として大変評価できる展開です。自然という言葉が、価値基準や規範を固定化してしまう傾向にある、という指摘には、非常に納得させられます。また、それが「社会」に対立することでもあるという主張は大変説得力のあるものです。全体的に、本作品はとても完成度の高いものです。

 ひとつだけ指摘するならば、結論部分との結びつきで、「自然」と「社会」との対立の図式をもう少し展開してみてもよかったでしょう。たとえば、社会は人為的なもの、人工的なものである、として、人為によって規範が変えられること(たとえば同性同士の結婚が認められること)という点から、Dの部分にあるように、自分の生き方の基準を探していくことを結論付けてもよかったでしょう。社会が人為的である以上、規範は自然で固定的なものではないはずで、一人一人の生き方の中から出てくる価値基準によって支えられて変化していくものだと思うからです。この点について論じてみてもよかったでしょう。とはいえ、本作品は自然という概念の本質を見つめ、問題点を自分で取り出すよい論文だと思います。

むかしむかし、人知れずつくっていたHP②

第2回 現代における生と死

 私は小さなころから、失うということがとても恐ろしかった。失う、たとえば身近な親戚の死などはもちろん、家出したまま戻ってこない飼い猫や小さな消しゴムでも、私に属しているモノを失うことさえ恐ろしかった。どうしてこんなにも喪失が恐ろしいのだろう?人の死に面した時、よく人は悲しさから泣くが、その泣くという行為の対象は誰だろう(A)と思ったことがある。自分と共通の時間や場を持った人を失うということは、自分自身の何か、その人との思い出やこれから過ごすであろう未来の時間を失うことを悲しんでいるのであって、その対象は自分自身であった(B)。人の死に接したときすべての人が自分を悲しんでいると言い切れるわけではないが、人が亡くなったことを純粋に悲しんでいるばかりではないと気づいた時、死は喪失の一種であり、また失うことが私にもたらす恐ろしさの意味が見えた(C)。

 その恐ろしさは誕生までさかのぼる。母親の胎内にいる時、人は絶対の安心安全に包まれている。空腹などの一切の不都合から自由であり、そもそも思考するということさえない。安心安全な母親の胎内からの誕生は、安心な場を失う(D)ということでもある。人は絶対的に何かを欠いた感覚を持って生を受けるのだ。 そして失った安心をもう一度得ようと懸命に何かをするということが生きるということではないのか(E)。よりよき生を生きるということの根っこにある何かを欲するということは欠けた感覚が作り出すものではないのか。母親の胎内に包まれるような絶対的な愛情を欲して人を求め家族をつくり、家族を守るために懸命に働き、心地よい家庭を築きあげてくる。生きることは様々な安心を得られそうなモノたちを自分の周りに集めることでもある(F)。しかしそうやって得られるのは安心感だけである(G)。なぜなら、得たものは喪失の危険性をともにもたらすからである(G)。安心を得ようとして喪失の危険性をともに呼び寄せる、生きるということは矛盾に満ちている。

 科学の発達は「神の死」をもたらし、そのために信仰にすがるという思考停止の手段を禁じられてしまった。「おそれることはない」とやさしく諭す絶対者の存在も否定された現代に生きる私は、この生きることの恐ろしさから逃れるすべを自分で考え出さなければならないことになった。厄介なことである。
講評 
 展開に説得力があり、読ませる作品になっています。まず、Aの部分で、明確な問いが立てられ、Bの部分でその答えが求められています。Bの部分の答えは、一般的には失われた対象に対して悲しんでいるとされるところを「自分自身」に対して、としているところが独自のものになっています。一般通念に抗いつつ自分自身で考える能力を感じます。

 続くCからの展開はBの「自分自身」という観点を生かしつつ、自己にとっての喪失の恐ろしさを取り出そうとするものになっており、それまでの展開とスムーズにつながる論述になっています。また、ここから、Dの部分の「安心」というテーマを取り出している点、EやFに示されるように、私たちの生の根本に「安心」を求める欲望が存在ていることが述べられている点は非常に読ませる洞察になっています。さらに、Gの部分では「安心感だけ」という言い方で、「安心」への欲望そのものを問う構成になっており、問いをさらに深める姿勢が感じられ、大変評価できます。

 ここまでの展開は完成度の高いものですが、Gの問題の深め方については、いくつか方向性があると思います。本作品の展開に即して言えば、Hの部分にあるように、安心は喪失と裏返しの関係であるというのがここでの中心的主張でありますが、この主張はもう少展開できると思います。たとえば、安心が喪失と表裏一体の関係であるとして、それでも人間は安心を求めてしまうことの意味を考えることができると思います。喪失抜きの安心(絶対の安心)が無い以上、人間はむしろ喪失を恐れることなく、そのつど安心を求めることが大切だと考えることも可能です。

 また、最終段落にも関わってくるテーマですが、信仰のような絶対の安心を与えてくれるものがなくなってきた現代社会において、安心とは何なのか、を問うことができると思います。確かに、本作品にあるように、よく考えてみれば、私たちのどんな安心感も喪失の可能性をはらむよるべないものかもしれません。しかし、仮にそうであるとしても、私たちが日常的に経験する安心感は、私たちの生きることを励まし、元気にしてくれるものであることは確かであると思います。信仰のような絶対的なものではないけれども、日常的安心感が私たちの生きることを支えている意義というのは論じてもよいと思います。このあたりを、具体的な例なども含めて論じてみると、さらに読ませる論述となるでしょう。とはいえ、本作品はそれ自体で展開と洞察力に優れたものです。大変評価できます。

むかしむかし、人知れずつくっていたHP(当時のいい方)

2000年前後、自作のホームページ(以下HP)を作っていた(ホームページといういい方は誤りというのはその当時知らなかった)。

ホームページビルダーというソフトがあって、それを利用していかにも手作りなWEBを作るのが流行っていた…んだと思う。ぼんやりと頭の中で思っていることをいざ話そうとすると要旨がまとまらず何を言いたかったのか自分でもわからなくなることが頻繁にあり、考えや感想をアウトプットしようとしていたんだろうと、当時を今振り返って思う。(今も説明がうまくなったとは思えないけどね)

たぶん朝日カルチャーセンターの通信講座だったと思うが、自分と社会を考える小論文講座も受講して悪戦苦闘した記憶だけしっかり残っている。

平成2年から参加していたまいづる塾という市民団体に、日立関係の技術者さんがいて、その人がものを教えるのにとても優れていて、エクセルやらワードやらパワポやら教えてもらったが、その中で「ブログをやりましょ」という聞きなれない言葉があり、何度も意味を聞き直したことがあった。

「ブログって、日記ですよ」「日記をネットに書くってどういうことですか?」なんて、今じゃ考えられないやり取りをしたことが懐かしい。

教えてもらったブログもどきを、自作のHPに取り入れて、読んだ本やお気に入りのCDの感想、映画の感想など、あれやこれや書き始めたのはそのころだったのか、時系列があやふやになってる。当時フリーのブログサービスがいっぱいあって、選んだのはライブドア。時代感じるなぁ。

ブログは簡単だった。HPはコンテンツの階層を考えてそろえて作らないとならないけど、ブログはタグをつけて書き飛ばせば後で、タグごとに見ることもできるし…。なんてことをリアルタイムでやっていたのが20年も前なんだね。

更新はたまにだけど、ブログは結構長く続いていたが、2010年代ツイッターやフェイスブック全盛期を迎えて、距離ができていたところ、友人のMさん(WEB制作のプロ)がブログを今風のシンプルな作りに直していただいた。

一時、もうブログなんかやめちゃおうと思っていたけど、歳のせいか昔のことを振り返って面白い・若かったなぁと笑えるようになってきたので、捨てちゃうこともないと思い返した。⇦今ここ。

で、ブログがきれいになったのを機に、HPビルダー時代のデータって残ってないのか探してみたら、ありました!メモ魔だった私が、PCが盛んになるにつれて書くのではなくPCにデータでため込む方にシフトしていたから、ちゃ~んと残ってた。(断捨離に励んだのはずっと後だったので、ため込む楽しさに浸ってたんだね)

で、せっかくなので昔のHPに書いていたことも整理して新しいブログに残しておこう、かな。

まず手始めに…上の方にもかいたけど朝日カルチャーの通信講座の原稿をアップ。全部で5回の「自分と社会を考える小論文」。課題が出されて、提出すると添削されて返ってくる。その添削が温かくって、カウンセリングを受けたような気になった。全5回のうち4回目「第4回 現代日本は<豊かな>社会か」が書けなくてさぼったのも覚えている。

1990年に茨城県のハーモニーフライト応募してイギリス・フランス・デンマークに視察に行かせていただたころから、自分の中には大きな悩みがあって、そのせいもあり自分の中を探るようなこういう講座に応募していた。実際カウンセリングや自助グループにも通っていた。悩みがあるってホントに痩せるんだよね。3か月で15キロくらい痩せてしまった、ほんとに。それも含めて懐かしい。

  

当時私は40歳代、これくらいしか書けなかった、今はもっと劣化してるだろうな。

自分と社会を考える小論文 第1回課題 他者*****
第1回 他者 
 私にとって他者は不安を呼び起こす厄介なものでしかない。「自分と社会を考える小論文」を受講したものの、いざ小論文を書こうとして、自分の書いたものを読むであろう添削者・他者の目が恐ろしく感じられ、自分を考えるために受講したにもかかわらず自分を隠す、あるいは自分を底上げしてかっこよく見せるための文章を書くにはどうしたらよいものかと、途方にくれる。このように、距離のとり方、価値観の違いの調整の仕方、コミュニケーションのとり方など、他者との関わり方に一喜一憂する。なぜこれほど快・不快を呼び起こされるのか(A)。

 自分にとって、最初に意識した他者は父であった。親というものは子を愛し守り育てるという大義名分の下、逆に親たちの価値観の範囲内に子どもたちを留めようとする(B)。子どもの側から言うと、親のしいたレールの上を歩くということになる。このような対応をされるとき、他者が自分の中に侵入し自分自身が失われる恐れを感じる。自分の価値観・コントロールのままに他者が動く・同意する場合に自己が肯定され、他者との一致・一体感を持てるため「喜・快」として感じ、反対の場合は「憂・不安・怒り」などを感じる。他者との関係で感情が表出される時、「喜」「憂」と正反対の現れ方をすることがあるが、その根は同じものではないか。つまり、他者を通して、自分と一致するか否かを確認できるか否かがその根にある。他者と関わりあっているようで実は自分自身を他者まで拡大できるか、他者によって受け入れを拒絶され、縮小するか、をしていたに過ぎない(C)。

 では、他者と関わるということはどういうことなのか?他者のと関わりから起こる感情のゆれに怖気づいて他者との関わりを避けることは、一時的に自分を安全圏に置くことはできるが、一生他者と関わらずに生きていくことはできない(D)。だとしたら、不安などの感情に揺られている自分に気づく、自分が感じている感情を見つめることが、他者との関わり方を学ぶ第一歩になるのではないか。しかし、それでは他者とのかかわりで起こる感情のゆれを体験するということで元の木阿弥のようにも思える。

 しかし、出会いによって起こる様々な感情や対立は、他者との一致という目で見るのをやめると、自分自身の境界線を意識できるチャンスになる(E)。豊富な出会いは自分自身の境界線をより確立することになる。また、同じような意識の他者がその他者自身との一致を私に求めてきたときにも、自分の境界をきちんと意識できることによって、一致するしないではない対応で他者に返すことができるようになるかもしれない。他者は自分の前に立ちはだかるものとして現れるのではなく、自分に豊富な体験をもたらすものとして現れるのだ。他者は招かざるものではなく、いわば「お客さま」なのではないか。
講評 
 はじめての講座で、本文にもありますが、他者に文章を見られることの不安があったと思います。今回は主に本作品を使って、経験をもとに論述を進める、という点について書きたいと思います。まず、最初の段落での問いの提示は、とても読ませるものです(Aの部分)。小論文は問いを立て、それを問い進める作業ですので、その最初の入り口がとてもよく提示されている点が評価できます。つぎのBの部分では、経験の記述が欲しかったです。父はどのような時、どのような様子で自分の価値観の範囲内に子どもたちを留めようとしたのか、そのことについて具体的な記述があると効果的です。そうすることでCの部分にあるような、自己の他者への拡大、といった主張が生きてきます。

 同様に、Dの部分にも具体的な経験の記述が欲しかったです。たとえば、他者と関わらずに生きていくことはできないと痛切に感じる時はどのような時か、また、他者と関わりを避けることの安心感だけでは満足できない自分のあり方の具体的な記述を加えてほしかったです。これらのことは最終段落のEの部分にも言えることで、たとえば出会いによって起こる様々な感情や対立が、他者との一致という目で見るのをやめれば自分自身の境界線を意識できるチャンスになるのは、具体的にどのような場面なのでしょうか。誰とどのようにコミュニケーションしたことで、自分の境界線を意識できるようになったのか、そうした記述があると、ここの部分は説得力のあるものになったでしょう。

 これまで具体的経験の記述について指摘してきました。確かに論文は経験の記述ではありません。しかし、論に説得力を持たせる、あるいは他人に伝えるためには、経験の記述が重要です。本作品では、抽象度を高めて論を展開することができています(これも論文を書くうえで重要な作業です)。ただし、抽象化して語る前には、その材料となる具体的経験という素材が必要です。このことに気をつけて論を立ててみてください。具体的な経験を他者に伝えることの不安はあるかと思います。それは当然のことだと思います。ですが、論文もひとつのコミュニケーションだと思ってチャレンジしてくださることを期待します。

愛知トリエンナーレ 見てある記③

愛知トリエンナーレ、見てある記③

津田道子「あなたは、その後彼らに会いに向こうに行っていたでしょう。」

各地で行われる芸術祭によく見かける、伝統的建造物の中に作品を配置する…その伝統的建造物が作品の一つの必然としてあり、アーティストがどう作品にまとめ上げたかを観る、ものが多くある。

これもそのひとつ。尾張藩の御用商人の屋敷内(伊藤家住宅 https://aichitriennale.jp/venues/Venue_S01.html)で展開されるアート作品。作品解説にいわく「『見る』という行為そのものと、私たちが無意識の内に当たり前ととらえている認知や身体感覚を問うている。」という作品なんだそうだけど…。

多くのほかの会場でも感じることなんだけど、この作品がここにある意味が?というか作品の一部として昇華されてないというか…。

作品自体は2つにわかれていて奥座敷で映像作品が展開されていて、もう一つは入口近く、立派な竈の近くに座って、ヘッドフォンで環境音を聞く…、後者の方がなんともいたたまれなさを醸し出してしまって…。

効果音なら効果音だけに絞ったらよかったのに(いや、これも私の勝手な感想)薄っぺらい若い女性の声でこの建物のこの位置の意味とかを語ってる。そういう内容なら、声で聴かせないで掲示でも作品の解説にでも載せておいていただきたかった。ヘッドフォンで強制的に聴かされている感が出てしまって、そうそうに外してしまった。

私個人の好みで、建造物を見ることが好きなせいか?竈の詳細を詳しくみたいのに、竈の前にヘッドフォンをした観客がじ~っと座っていて、作品だというから邪魔もできないし、近づくと作品に参加するのだと思われて、ボランティアさんにヘッドフォンを勧められちゃうし。

この伊藤家住宅がある付近は、通りが伝統的建造物を今に生かしてホテルやら骨とう品店にしてあったり、土地の持っている魅力がとても大きな所だった。

そんな場所で、作品を展開することにアーティストさんってもっと「怖れ」をもってもいいんじゃないかな。今まで見た作品の中で、建物に負けてる、って感じたもの、多かったなぁ。建物だけではなく…ホワイトキューブから飛び出して、雑音や歴史が混在・現在も生きている場所で作品を展開することに、もっと慎重…慎重っていうと言葉が違うなぁ、なんて言ったらいいのか。自然や「まち」を超えるインパクトのある作品を期待する、とでもいうか…。

おまけ
愛知トリエンナーレの会場の一つになっている「四間道・円頓寺」は芸術祭でなくてもう一度行ってみたいと思った。作品を見て回ったのは夜7時過ぎだったんだけど、商店会ではあちこちにオープンな居酒屋さんが点在し、お店の外でとおりにはみ出て椅子テーブルで宴会中の方多かった。細い路地も入り組んでいて、土地の魅力がばんばん響いてくるところ。

作品で聴かされた「うちとそとの間の空間の面白さ」的なことは、この商店会で飲んでるおっちゃんや観光客を見ていた方がぞくぞくと面白かったよ。(すっごい辛口でなんか申し訳ないけど、私には?だった、ということで勘弁してください)

愛知トリエンナーレ 見てある記②

愛知トリエンナーレ、みてある記②(作品の良しあしの順番ではないので念のため)

「アレハンドロ・ホドロフスキーのサイコマジック」
直訳すると「精神・霊魂に関する魔術」おどろおどろしいことこの上ないけど、そのまんまのネーミング。これが「アート」なのか?が最初の印象。

作品としては、アーテストで作品の名前になっているアレハンドロ・ホドロフスキーがサイコマジックを繰り広げている映像と、その参加者が後日アレハンドロ・ホドロフスキーにあてて書いた手紙の展示(同じものが冊子として持ち帰り自由で提供されている)。

「彼のもとを訪れる相談者に『処方箋』として悩みの根源である事象に、相談者自身で行動を起こすことを促しており、その対価として「相談した内容と与えられた処方箋、そして処方箋を実践した結果どうなったかを、作家へ宛てた手紙で記す」ということを求めます」

映像は、言葉に語弊があったら申し訳ないが「新興宗教の儀式」のように「しか」見えない。あるいは、一時期はやった「自己実現セミナー」の講習会か。教祖様にあたるホドロフスキーが様々な声掛けやアクションで参加者を「あやつっている」風景のようにしか見えない。

しかし、提供された冊子をしみじみ読んでみると印象がかわっていく。ホドロフスキーが求めているのは「手紙を書くこと」のみ。献金したり人間関係を捨てさせられたりは全くなく、「儀式」に参加後行動することを求められた参加者が、何年後でもいい、ホドロフスキーへ、行動の結果どうなったかを手紙にしたためる、ことだけが要求されている。

ある手紙、病に悩んでいた参加者。疑いつつも「儀式」に参加し、行動を起こし、自分を深く見つめる‥‥結果として、病は治ってはいない(ここ大事)が、気にしないで生きていくことを決断する、ここに至った「サイコ=精神・霊魂」の道筋が本人によって綴られている。

初めて越後妻有の芸術祭を見たときに、行く前後で自分の価値観がガラッと変わってしまったのを、とても印象的に覚えている、アートってすごい、と。

これも、そういう意味からいうと「アート作品」であるのか!?

すごいとは思うが、心の奥底がぞわぞわと落ち着かないのも同時に感じた。これがアート作品であり、変な宗教とは違って安全であったとしても、そこに立ち入るには相当な勇気というか覚悟が要る…。

愛知トリエンナーレ 見てある記①

電凸で幕開けした愛知トリエンナーレ、もっぱらの印象は電凸された作品に枠とられてしまっている感があるが、会場に足を運んだものとしては(芸術祭の開催地市民として表や裏をちょっと垣間見たものとしては)、そのほかの作品に素晴らしいものが多かったし、そこが語られないのはなんとももったいないとしか思えない。

何を見てきたか的、メモを少々。1日1作品。

旅館アポリア (喜楽亭)

最初に見た作品で、ドーンと一発一番印象に残ったものになった。

会場は料理旅館として、戦前戦中戦後と栄えた建物。戦前は養蚕業、戦中は海軍、戦後は自動車産業関係者の御用達の高級料亭。

2階建て、すべてを雨戸で締め切り、部屋ごとにこの建物の歴史とからまる時代の映像を流して見せる。

ある部屋では、神風特攻隊草薙隊が、任務に赴く前日この宿で過ごした。隊員の手紙が当時の写真の映像とともに写される。

またある部屋では、小津安二郎(宣伝部隊として南洋に派遣された)の作品や横山隆一(同じく宣伝部隊として漫画を多数残している)の作品とともに、激動の時代を映し出している。

作品の紹介にある通り、歴史の授業で学んだ通り一遍の(しかも後付けである)ことしか知らない私にとって、その時代の空気や複雑で相反する背景などが、映像とともに波打つような共感を呼ぶ。

映像作品はどちらかというと苦手だし、一番最初に行った会場で先を急ぐ気分満載であったにもかかわらず、全部屋の全映像を残すところなく見てきた。

この作品を、歴史の授業に取り入れてたら、と思う。教科書に書かれた遠い時代の関係ないこととしての戦争が、今ここにあると感じられるに違いない。

かどやが!その4

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間が空いてしまってもう前に何を書いたのやら、自分でもうろ覚えで読みなおしました(苦笑)

 

かどやのアイスキャンデー、のブログを書いてたら、いろいろ感想が聞こえてきました。その中で、これは上手にかわして来たつもりだった点にツッコミがはいりました。「なぜかどやではなくまんしゅうやご贔屓だったか」問題(問題なのね・笑)

え~、なんともうしましょうか、当時の子供のことですのでご容赦頂きたいし、あくまでも好みだからねぇ…つまり、かどやは私ら子供にとって、セカンドチョイスのお店だったってことなんですね(あ~、言っちまったよ、ついに)。まんしゅう屋のアイスは美味しかったし、キャンデーも色が濃かった(色が濃いと美味しいって感じでしょう?実際味が良かった記憶なんです)!その点を当時を知ってる◯◯から突っ込まれました(笑)そうです、簡単にいうとまんしゅうやのアイスが美味しかった。

で、前回の続きに戻ります。

かどやの店内、例のカレンダーよりも表がわに墨跡豊かに「アイスキャンデー 50円也」「あずき 60円」「アイスクリーム 100円」「ソフトクリーム200円」と縦書きのお品書きに書いて貼りだしてありました。

大人になって、アイスの大人買いができるようになると、いつもキャンデー20本アイス10個などとまとめ買いしてましたね。

 

「キャンデー20本とアイスクリーム10個ください。あとソフトクリームね」
「はいはい、小豆も入れますか?」
「入れてください」
「お父さん、アイス10個」
とおばさんから声がかかると白い前掛けをした(渡る世間~のTVのおじさんみたいな白いエプロン)おじさんが手早くアイスを作ります。おばさんはキャンデーを数えて、白い紙袋にいれ、更に新聞紙で(ここ大事)くるくる包んで、キャンデーの入っていた冷凍庫に一旦保管。

その間、おじさんはソフトクリームを作ってくれて、それを舐めながらおじさんのアイスを作る手さばきを見ている。

おじさんは、アルマイトのお盆(ここも大事・冒頭の写真参照よ)にモナカの皮を10数個並べます。モナカの皮は昔の駄菓子屋さんみたいなアルミの蓋のかぶさった大きな瓶に入ってた。で、冷凍庫からディッシャーでアイスを掬い、木のヘラで平らに均してはモナカの皮にカシャンと乗せていきます。思えば、アイスディッシャーなんてものを最初に目にしたのもここだな。まんしゅうやではアイスを作る場面は見た記憶がない。

10個ディッシャーでアイスを皮に乗せると、モナカの皮で蓋をして、こちらもやっぱり紙袋に入れた後、新聞紙でくるくるし、アイスキャンデーと一緒にレジ袋に入れて渡してくれます。「新聞紙ってえらい、ちょっとの時間なら、溶けずに持ち帰れるのは新聞紙だから」っておばさんが言ってた。

かどやに通い始めて、しばらくはなんだか罪悪感があったんだよね。もともとおなじみではないのにこっちに買いに来てって思われないだろうかとか、変なこと考えてたんだねぇ。おとなになってからは一番若いおばさんとは仲良しになって随分通ったなぁ。

 

で、ある日、驚きの事実を告げられる。アイスキャンデーをやめてアイスクリームとソフトクリームだけになっちゃうって。そのおばさんにどうしてやめちゃうんですかって、思わず聞いちゃったですよ。おばさん「キャンデーの液をいれて冷やす道具が壊れちゃって。新しいの欲しくてももうつくってないんだって」。真鍮製の試験官状の筒が6個か8個入り口あたりでつながってる感じ?の型が穴が空いてしまったとか。穴が空くほど使ったんだね。

 

日本の文化とか、かろうじて残っている工芸品とかは、それを作る人はまだまだ残るんだけど、周辺の道具を作る人が先にいなくなっちゃって道具がなくなっていくという順番でなくなっていくんですよね、なんでも。アイスキャンデーもそうだったんだ!

 

夫は金属部品を作る工場をやっているので、夫に「真鍮かステンレスで作れない?」って聞いちゃいましたよ。ショックだったから。夫曰く「ものすごく高くなっちゃうよ」う~ん(泣)

 

アイスだけになっても通いましたが、やはり花はキャンデーでしたねぇ。そしてある夏、かどやにアイスを買いに行ったら、雨戸がしまったまま!が~ん!全部やめちゃったんだ(大泣)おばちゃんが亡くなっちゃったんだろうか、そういえばおじちゃんは数年前から姿見なかったしなぁ、いろいろ想いがめぐりました。50年以上親しんだアイスキャンデーのお店かどや、今でも実家によって旧国道経由で帰るとき、そこを通ると、雨戸が閉まったままの佇まいが目に入り、胸がキュンとなっていたのでしたが、このたび何やらリニューアル。恐ろしくてリニューアル後は傍を通ってません。

かどやが!その3

話がどんどんずれるけど…ご容赦ね。

 

映画女優のカレンダーは当時貴重品だったと思う。

なかなか手に入らない、きっと買わなくちゃならないタイプの豪華なカレンダー。

それがいつも毎年はってあったのは、そうだ、バス停!

かどやは一方通行の細い道に面して建っていますが、

かどやたるゆえん、店に向かって右は旧国道と地元の人が呼ぶ

旧国道6号線に面していました。千石町というバス停が

かどやの横壁面にあって、そこには近くにあった映画館の看板がかかっていたんですね。

多賀会館!知ってる方も多いと思うんですが。私の初映画はここでゴジラ対モスラ。

おもいっきりかどやから離れます!

多賀会館は、2階建ての映画館で、2階は桟敷席でした。

映画の合間には普通に「おせんにきゃらめる」ってばんじゅうを下げた人が売りにきてた。

昔の映画館は、建物の外に映画の音声をスピーカーで流していました。

なので、外にいると映像は見れないけど、怪獣映画のドキドキするような

音楽なんか聴き放題(笑)弟は、その音だけ聞きに行ってて

親に怒られていた…すまぬ弟よ、昔のことを述べてしまった(苦笑)

多賀会館の一番古い記憶は、ゴジラの銅像(?)が建ってたこと。

映画をやってたんだと思うけど、ミニチュアのゴジラが映画館の前にしばらく建ってた。

子供心に、なんで?と思ったんだろうな。

モスラやキングギドラやラドンや、いろいろこの映画館で楽しみました。

最後はポルノ専門館になってしまってなくなっちゃった。

 

で、その映画館の看板がかどやの脇のバス停にあって、壁を貸してたんだな。

だから、あんな高級カレンダーを毎年あそこでは貼ってたんだ、と当時の記憶が

余計な方に飛びました。

 

道が交差するところで、タバコの販売。そこには年配のおばあちゃんがいつも座っていた。

昔のタバコ屋さんのつくりに共通しているタイル張りのカウンター、

あれ、今回のリノベーションで保存されてるんだろうねぇ。

まさかの取り外しなんかしてないだろうね、心配になってきた。

あのタイル張りのカウンター、移設できるものなら欲しいもの(何に使うんだ!)

常陸太田のカフェの近くにも文房具&タバコ販売のお店があって

そこにもそのタイル張りカウンターがある。

あれ、壊さないでほしいなぁ。

今回はまったくアイスキャンデーにはふれないで終わってしまった、

でもこれもかどやの一面よね。(まだ続く、みたい)

かどやが!その2

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思い出のまんしゅうや、イメージはこんな感じ。グーグルマップを検索すると今も100均ショップとか

まんしゅうやがヒットする。ストリートビューで見ると、そのふるさが絶対昔のまま!

入り口がサッシに変わっただけと思える佇まいで現存してた!

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このまんしゅうやの絵の左側は小道で小さな商店が連なっている。子供の頃はあまり通らなかった・・・。

自宅へはイラストからみると右に進む道を行くので、単に行き先がその道沿いにはなかった

ということかもしれない。でも印象的な通りで(車は北から南への一方通行だった、いまもかな?)

なぜか今でも時々この通りの夢を見る。

白いのれんがかかっていた小さな食堂は、現在チェーンの居酒屋になってる。

その先に花屋さん、鈴廣だったかな…検索、ピンポン!

花屋さんというか、仏具と仏花のお店。今の花屋のような明るい華やかさはなくて

花も菊とか榊とか地味~なものしかなかった。反対側あたりにバッグのお店があったし

だいぶあとだけどかどやの反対側あたりにラーメン屋さんがオープンして

何度か行ったなぁ。今は何になってるんだろう。

 

やっとたどり着きました、「かどや」

まんしゅうやさんのほうが年配だったので先に店じまいしてしまって

それからはアイスキャンデーはかどやの独占!

ここは、道路に面してフルオープンの店構え。向かって右が袋菓子やタバコの販売

左側にずらっとアイスキャンデーを保管する冷凍庫がありました。

今もアンティークを扱う店で見かける、木製の冷蔵庫とか、ありますよね

あれを横に寝せたような冷凍庫の大きいのがでーんと店頭にありました。

扉をうえに観音開きにあけると、色とりどりのアイスキャンデーが並んでる。

この冷凍庫の中に鎮座するアイスキャンデーを見るのは、まんしゅうやでは

できなかった楽しみでした。

かどやは多分ご夫婦と思われる年配のおじいちゃん、おばあちゃんの他に

その親御さんらしいおばあちゃんと若いおばちゃんの4人で回していたらしい。

一番年配のおばあちゃんはあまり会話した記憶がなく、もっぱらタバコ売り場に

いらしたような。

メーンはご夫婦らしいおじいちゃんおばあちゃん。

冷凍庫の奥にはアイスキャンデー製造の作業場。

いつ行ってもタンタンタンタンとVベルトが回ってる軽い音がしていました。

まんしゅうやのも、かどやのもアイスキャンデーの形は試験管型

真鍮製の試験管を8個位くっつけた容器に

凍らせる前のアイスキャンデーの素を、これも真鍮のジョウゴで注ぎ入れるのは

おばあちゃんの仕事でした。

もなかアイスとソフトクリームはおじいちゃんの担当です。

テイクアウト(そんな!笑。違和感ある表現)がメーンですけど

中で食べることもできたんです。

ジュースの冷蔵庫などの奥にテーブルと椅子があって、

そこでアイスやソフトクリームを食べていくこともできました。

アイスは小さな皿にスプーンを添えて、ディッシャーでころんとまあるくでてきます。

ソフトクリームは、ソフトクリームスタンドに乗って!

これが高級感あったんですよねぇ。

アイスをなめなめしながら、部屋の中をながめてるのがいつもでした。

薄暗い土間にあるテーブル、周りにはお菓子の入ったダンボールとかが山積みになっていて

天井から長押の間には、カレンダーがズラッと貼ってありました。

昔の「映画女優」のカレンダー、ね。吉永小百合とか大御所風の女優さんが

綺麗な和服をきて花を持ってにこって笑ってる大判のカレンダー。

東宝だか東映だか、映画全盛期によく配っていたであろう懐かしの

映画女優のカレンダーが所狭しと貼ってありました。

(続く)

かどやが!

2016-03-16-08.13.43

 

フェイスブックのTLでも散見していたけど、常陸多賀駅前の「かどや」さんが

今どきのリノベーションを経てシェアオフィスになるらしい。

常陸太田でタンス屋さんだった場所をお借りして、リニューアル後コミュニティカフェを

運営しているけど、実際に自分の思い出が重なる場所が変わっていくという

実感はこの場所では覚えなかった。それが、かどやが変わるという記事を読んで

若干の…というより、かなりの動揺を覚えた。身勝手なことこの上ないかも。

(カフェは大事に活かして使っていますよ、でもそれとは別の感覚ですね)

「かどや」というキーワードから無限に引っ張り出されてくる自分の幼いころの記憶。

つれづれなるままに、記載してとどめておこうか、その記憶。

文字にしてしまうと、ぼんやりとした夢のような記憶が、固定化されて別物になってしまう危惧が

ないわけでもないんだけど、でも、自分の記憶もいったいいつまで保てるかという

年齢にもなってきたことだし。

常陸多賀駅前の昭和30年代の思い出、長くなりそうな予感あり。

父は常陸多賀駅前の製材所に勤めていて、その後独立。桜川町に製材所を構える。

自宅は今の常陽銀行多賀支店の裏あたり、当時は字名を「いわがみね」って言ってたような。

子供としての行動半径は、父の勤めていた製材所のある駅前が南限、東は下孫の公園付近まで。

駅のロータリーは当時は真ん中が池のようになっていた。4つ下の弟はよくこのロータリーの池で

水遊びをしていたようだ。

 

そのロータリーの近くに2軒のアイスキャンデー(キャンディーではないよ)があった。

一軒は「まんしゅうや」、もう一軒が「かどや」だった。

私と私の兄弟がおなじみだったのは「まんしゅうや」のほう。夏はアイス、冬はラーメンを出す

店だったので「まんしゅうや」といったのだと思う。店先は、いわゆる昭和の食堂の風景そのまま

のれんが下がっていて、そこには「支那そば」と書いてあった。

今は差別用語なのかもしれないが、ラーメンというより「支那そば」のほうがイメージにぴったり。

あっさり醤油のつゆに縮れ麺、ほうれん草となるととノリが乗ってるだけの

正真正銘の中華そばでした。おいしかった。1杯50円。

この店は、自分が中学生のころまで営業していて、そのころは100円で2杯という

贅沢なこともでき、おじちゃんは1杯目が食べ終わるころ2杯目を出してくれる優しいおじちゃんでした。

で、アイスキャンデーね。

1本5円だったと思う。ラーメン屋さんの入口は引き戸に暖簾だけど、それは冬場のみ。

夏のアイスの時期はそっちはあかなくて、そのわきに腰高の窓が2間分ぐらいあって

真ん中の窓を2枚あけてあり、その前に子供用の踏み台がおいてある。

4

その踏み台に上って、「1本ちょうだい!」というとおじちゃんはアイスが入った

冷凍庫(木製の扉に真鍮の取っ手がついてて、片開きを上に持ち上げるタイプ)を

開けて「何色?」と聞いてくれます。

黄色、ピンク、水色、白、緑とあずきの6種類あった。

小豆は高くて、10円だったかな~?他のは1本5円。

色は違っても、味は同じ。でも、色が違うとおいしさが違う気がしてさんざん悩む。

あずきはおいしいけど、口に小豆の皮が残るのであんまり好きではなかったなぁ、

子供のころは。

このころ「かどや」でアイスを買った記憶はない、なぜまんしゅうやばかりだったのか

その理由はよくわからない。かどやが面している通りの細いほう、駅から北上する小道は

食堂や花屋さん、バッグ屋さんなどがならぶ小さな商店街、通りが狭くて大人が行き交う通りという

イメージでもあったのか?ロータリーに面したまんしゅうやの隣には「大判焼き」屋さんもあり

ひらけた明るい感じがしたんでしょうかね。

 

まったくかどやが出てこないうちに、ブログが長くなったので、次回に続く。(続くのかい、笑)

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