第3回 私にとっての<自然>
今、<自然>という言葉ほど不自然な言葉はない。春になると桜が咲き、時期が過ぎるとその花が散ること、猫が小鳥やねずみのような小さな生き物を狩って遊ぶというようなことは文字通り自然であろう。しかし人間の社会の中に用いられるとき、一転してそれは悩ましいものとなる。たとえば、「年頃になったら、自然に男と女が惹かれあい」「結婚するのが自然」で、「結婚したら自然に子どもが授かる」など。自然は普通や当たり前という言葉と同じように用いられ多用されてきた(A)。
人は物事を考えるときに二項対立という方法をよく使う。白黒をつけるという言葉に代表されるように二つの価値観を比較してそのいずれかをよしとする考え方に自然をあてはめると、反論を許さない強さをもつ。なぜなら、散らない花はないのであるから。前回のテーマでも述べたように人間は安心・快・幸福を求めて生きている。自然ではない、と否定されることは不安を呼び起こし、逆に自然であると肯定されることで、それらが簡単に手に入るのである。つまり、自然というくくり方・判断は安心を求める人間が求めた概念である(B)。
また、自然という言葉は、自然であると言い表された事物を、そのことが正しいかどうかそれ以上さかのぼって検証する必要性がないと言い切っているに等しい響きも持っている。ねずみが猫を狩ることがないように。生きていくうえで何か判断を要する場面に出会ったとき、たいていの人はその判断の基準として社会規範に沿っているかどうかを、無意識のうちに重ね合わせてみている。そして、規範通りの選択を「自然」なこととして選ぶ。それがたとえば「男女が惹かれあい結婚することが自然である」というような用いられ方になる。このように社会の多数を占める人たちが選ぶ価値基準を規範といい、それを肯定するのに大変便利な言葉として自然は用いられているのである。しかし、規範は判断の基準となると同時に、判断を限定する力も持っている。人は判断を自分で下したかのように思っているが、実は規範によって縛られているに過ぎない。大事なことは、規範は多くの人が選び、また縛られるものではあるが、真理ではないのである。自然は規範の正当性が問われることがないように使われてきた。規範の正当性が問われることは社会の成り立ちを脅かしかねないからである(C)。
しかし、同性同士の結婚が認められる国ができてきたように、自然と称する規範がもはや意味を成さないほど価値観が複雑多様になってきている。そのような時代に、社会規範によりそい・依存して思考を捨てるのではなく、自分が欲する生き方の基準はなんだろうと考えながら生きていくこと(D)、それが自分にとっての自然な生き方である。
講評
「自然」という概念をめぐって、その意味と問題を考える作品です。Aの部分で「自然」の一般的用法を取り出し、そのうえで、Bの部分において、人間の安心を求める気持ちに自然の意味本質をおく展開は、説得力のある独自のものになっています。ここには、「自然」が世界そのもののあり方としてあるのではなく、人間のあり方に相関して(安心を求める気持ちに答えるように)成立した概念であることがとられられており、鋭さを感じます。このあたりの論述は、テキスト(「『考える』ための小論文」)の59ページにある「本質観取」の好例だといえるでしょう。
また、Cの部分では、それまでの論述をさらに進めて、自然という概念の問題点が述べられています。これはテーマを独自に問い進め、問題を見つけ出す小論文として大変評価できる展開です。自然という言葉が、価値基準や規範を固定化してしまう傾向にある、という指摘には、非常に納得させられます。また、それが「社会」に対立することでもあるという主張は大変説得力のあるものです。全体的に、本作品はとても完成度の高いものです。
ひとつだけ指摘するならば、結論部分との結びつきで、「自然」と「社会」との対立の図式をもう少し展開してみてもよかったでしょう。たとえば、社会は人為的なもの、人工的なものである、として、人為によって規範が変えられること(たとえば同性同士の結婚が認められること)という点から、Dの部分にあるように、自分の生き方の基準を探していくことを結論付けてもよかったでしょう。社会が人為的である以上、規範は自然で固定的なものではないはずで、一人一人の生き方の中から出てくる価値基準によって支えられて変化していくものだと思うからです。この点について論じてみてもよかったでしょう。とはいえ、本作品は自然という概念の本質を見つめ、問題点を自分で取り出すよい論文だと思います。