愛知トリエンナーレ、見てある記③
津田道子「あなたは、その後彼らに会いに向こうに行っていたでしょう。」
各地で行われる芸術祭によく見かける、伝統的建造物の中に作品を配置する…その伝統的建造物が作品の一つの必然としてあり、アーティストがどう作品にまとめ上げたかを観る、ものが多くある。
これもそのひとつ。尾張藩の御用商人の屋敷内(伊藤家住宅 https://aichitriennale.jp/venues/Venue_S01.html)で展開されるアート作品。作品解説にいわく「『見る』という行為そのものと、私たちが無意識の内に当たり前ととらえている認知や身体感覚を問うている。」という作品なんだそうだけど…。
多くのほかの会場でも感じることなんだけど、この作品がここにある意味が?というか作品の一部として昇華されてないというか…。
作品自体は2つにわかれていて奥座敷で映像作品が展開されていて、もう一つは入口近く、立派な竈の近くに座って、ヘッドフォンで環境音を聞く…、後者の方がなんともいたたまれなさを醸し出してしまって…。
効果音なら効果音だけに絞ったらよかったのに(いや、これも私の勝手な感想)薄っぺらい若い女性の声でこの建物のこの位置の意味とかを語ってる。そういう内容なら、声で聴かせないで掲示でも作品の解説にでも載せておいていただきたかった。ヘッドフォンで強制的に聴かされている感が出てしまって、そうそうに外してしまった。
私個人の好みで、建造物を見ることが好きなせいか?竈の詳細を詳しくみたいのに、竈の前にヘッドフォンをした観客がじ~っと座っていて、作品だというから邪魔もできないし、近づくと作品に参加するのだと思われて、ボランティアさんにヘッドフォンを勧められちゃうし。
この伊藤家住宅がある付近は、通りが伝統的建造物を今に生かしてホテルやら骨とう品店にしてあったり、土地の持っている魅力がとても大きな所だった。
そんな場所で、作品を展開することにアーティストさんってもっと「怖れ」をもってもいいんじゃないかな。今まで見た作品の中で、建物に負けてる、って感じたもの、多かったなぁ。建物だけではなく…ホワイトキューブから飛び出して、雑音や歴史が混在・現在も生きている場所で作品を展開することに、もっと慎重…慎重っていうと言葉が違うなぁ、なんて言ったらいいのか。自然や「まち」を超えるインパクトのある作品を期待する、とでもいうか…。
おまけ
愛知トリエンナーレの会場の一つになっている「四間道・円頓寺」は芸術祭でなくてもう一度行ってみたいと思った。作品を見て回ったのは夜7時過ぎだったんだけど、商店会ではあちこちにオープンな居酒屋さんが点在し、お店の外でとおりにはみ出て椅子テーブルで宴会中の方多かった。細い路地も入り組んでいて、土地の魅力がばんばん響いてくるところ。
作品で聴かされた「うちとそとの間の空間の面白さ」的なことは、この商店会で飲んでるおっちゃんや観光客を見ていた方がぞくぞくと面白かったよ。(すっごい辛口でなんか申し訳ないけど、私には?だった、ということで勘弁してください)