2002年ごろ書いていた映画の感想
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運命の女
主演・リチャード・ギア、ダイアン・レイン 2002年 (予告編はこちら)
何がすごいって、主人公の夫子持ちの主婦が行きずりのプレイボーイと不倫して、家に帰る途中の電車の中の表情。男との情事を思い出してほてった顔、思わず恍惚の表情になったり、同時に深い悔恨・罪悪感の表情になったり。あのシーンだけでも見る価値があったってくらいすごい。
幸せだけど、ときめきとかには縁のない生活,、予定調和的にきっと一生が終わってしまうはず、安定はしているが先の見通せる生活をしていた「有閑」主婦が、ひょんな事で知り合った男と、ちょっとした浮気のつもりが、快感のとりこになって歯止めがきかなくなり、とんでもないことになってしまう・・・。ありがちなストーリーだけど、映画にひきつけられるのはこの表情のせい。昔はプレイボーイ役でならしたリチャード・ギアが朴訥なまじめ一方の夫役を、ほんとにうまく演じてる。
浮気相手の男は、したたか。こうやればまじめにバカがつくような女でも、引っ掛けられるし、引っ掛けたら、こういう扱いをすれば、しがみつくようになるってのを、知り尽くしているって感じ。いや、「まじめな女でも」ではなく、まじめな女「は」こうすれば「常識の壁が壊れる」=「ものにできる」=「しがみつく」って言ったほうが正しい。
妻が感じていたのは本当の快感だったんだろうか?釣り橋を渡るときのドキドキと人を好きになるときのときめきを人間が勘違いするって言う実験を見たことがある。この妻の感じたのは、もしかするとこの実験のように快感と勘違いするような別の感情だったんじゃないかな。他にも、たまねぎの皮を剥くように、ひとつひとつ自分の感情をきちんと分けて見つめていけたら、そしてそれらの感情が何から構築されたのかが、彼女がわかったら・・・。
そしてもうひとつ、自宅とプレイボーイの家のなんとまぁ驚くべき対比。きちんとしたWASPの家と、自由気ままな空間としての男の部屋。ないものねだりって言っちゃぁおしまいだけど、もしかしたらありえたはずのもうひとつの「私の人生」への憧れとその憧れの生活を今エンジョイしている、自由な(でも危険な)男。
柳田國男が東北の女性が「不安」という感情を理解できてないと、書いてあって、そんなバカなとそのときは思った。でも実際自分の気持ちほど良くわからないものはないって最近思うようになった。自分では楽しいと思っていることが、世間一般の「楽しいはずの物語」をなぞっているだけで、本当の自分の感じとは微妙にずれていることに。
倫理観や西洋では宗教上のタブー、そういうものを破る時、人は何を感じるのだろうか?妻が感じたのは、この常識や倫理の枠の外へ出るというある種の「ドキドキ・ときめき・解放感」にも似た感情だったんではないか?また、罪悪感にさいなまれる時、その感情をどう扱ってよいか、「まじめ」な人ほど対処法が解らないで、罪悪感を心の中から追い出す方法として、さらに泥沼に陥るって悪循環。
罪悪感を構成する、産まれた時から意識の底に刷り込まれた倫理観は、資本主義社会延命のための構造という、現代のフェミニズムの最先端の知識を持っていたら、こんなことにはならなかったろうに・・・。もうちょっと語りたいけど、ここから先は共通の言語をもつ相手にじゃないと、うまく話し合えないなぁ。フェミニズムを語るのに、結構いい題材になる気がする。