久しぶりに時間を作って映画館へ。お目当ては「キサラギ」の監督の新作「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」と「カールじいさんの空飛ぶ家」。内原ジャスコの映画館で連チャンでみる。
まずは「カールじいさん」、最初の10数分の回想シーンをみただけで、もう十分いい映画って思えちゃう。途中のストーリーはどうでもいい(よくないと言う意味ではなく)。満足してストーリーを追っているだけという感じで物語は順調に進む。
あったかぁい気持ちで見終えたら、エンドロールがまた見応え十分。じいさんと男の子のその後がアルバム風にすすみ、監督やら音楽やらのスタッフの名前がその写真の隣に出るんだけど、スタッフの仕事とカールじいさんのスナップ写真が絶妙にリンクしてるんだな。
途中「あれ?もしかして」と思って目をこらしてみてたんだけど、実にうまい!!こういう細かなおまけ気分って言うか、宝探し感覚っていうか。すっごく得しちゃって満足しちゃってシートを立つ。
でも、焦って次へ。2つの映画の上映時間は、終わりと始まりが10分くらいかぶっているんだけど、映画だけの時間=上映時間ではなく、当然予告編があるわけで、大丈夫と踏んで連チャンにしたんだけど、ばっちりOKでスムーズに「ブラック会社」になる。
こちらはイマイチかも。というか「キサラギ」がおもしろすぎたんだな。ガンダムのファンなんかが見ると受けるところとか、セットの作り込み方とか、細かく見ればおもしろい所が満載なんだろうけど、でもなぁ。
キサラギは状況が密室劇風になってた所から既に観客が、キャラの立ち方なんかを「許してみちゃう」雰囲気をつくっていたんだろうけど、これは普通にドラマだから、あまりのキャラの露骨さが「ありえなぁい」感覚を呼び込んでしまう気がする。次回作に期待…しないかもよ。
「カールじいさん」のひねくれ方を見ていてクリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」を思い出した。カールじいさんもクリント・イーストウッド演じるコワルスキーも、昔懐かしいアメリカ男、つまりアメリカの象徴のよう。どちらも世の中の流れについて行けなくなっていて、厄介者扱い。
ひねくれ頑固になってしまったじいさんが若い男の子の成長に力を貸すというストーリーも重なるところが多い。描かれているのはアメリカの課題そのものなのかもしれない。
あの時代はよかった、って思う今の閉塞感がこんな映画を作らせるのかなぁ。「三丁目の夕日」がはやって昭和礼賛ブームになった日本も同じステージにいるのかもしれない。ただ、昭和はよかったで大団円を迎えがちな日本に比べ、「グラン・トリノ」は荒廃と混乱の時代の解決案をメッセージとして描いてはいる(それがいいか悪いかは別として,それしかないのか、それでいいのかも別として)。
同じようにカールじいさんも年老いた大人の果たすべき役割として、自分の新しい人生をスタートさせ新しいアルバムを増やしている。気になったのは、少年を助ける大人がどちらも家族ではないところ。見知らぬ大人と少年の友情、人生の先輩と後輩の交流、背景にあるのは家族の崩壊か?なんてのは短絡的かも。
人が生きてきて、その生き方から伝えたいメッセージは、家庭内で家族に伝わるのではなく、近しい他人に伝わっていくんだ、というのは前から自分も思っていて口にしていたこと。「桂馬」で伝わるって人には言っていたんだけど。
家に帰ってから、カールじいさんのサイトをのぞいて見たら、宮崎駿が「追憶のシーンだけで満足した」なんてコメントを寄せていた。やっぱりねぇ。ポニョなんかより、こっちの方がずっとよいぞよ、監督。いつまでたっても女の子の自己実現物語じゃぁ、煮詰まっちゃってるのがばれますよ。