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茨城大学生涯学習講座②(2003年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座を受けた記録②

■テキスト グッドナイト・ムーン(原題:STEP MOM)

資本主義社会の忠実なメッセンジャー―ハリウッド映画による2つジェンダーの刷り込み

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キーとなるセリフ
ジャッキー:子どもたちにとっていつも最善の方法をとるのが母親の役目
イザベル:自分も懸命に子育てをしてきた・・・が,子どものことを最優先に考えることはできない・・・ルークを愛していく中で自分自身を愛しそして子どもの愛していく
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この映画のようにアメリカでも、もちろん日本でも「母親の愛」は母と子の利害が生涯同一であることを自明のものとしてきた。母のよしあしをはかる基準は両者の利害が同一であることを,いかに真剣に母親が考えているかによる(ジャッキーのセリフ)。つまり「良妻賢母」となること。よき妻も賢い母親も夫・子がいないと成り立たない。良妻賢母は主体を放棄することによって成り立つネガな主体とでもいおうか。

アメリカにおいてもっとも良妻を演じなければならないのは大統領夫人(候補者も含む)である。夫の後ろに(3歩下がって夫の影を踏まず?)常によりそい、夫の演説する姿に心から聞き惚れ賞賛のまなざしを送る。これはアメリカ社会の理想となる聖家族を演じているためである。

一方この映画で描かれているのは「良妻賢母」の「賢母」の姿である。大手出版社のキャリア編集者としての仕事と子育ての二者択一で、子育てを選んだジャッキーに残された自己実現の道は「良妻賢母」になるというものだけだった。「良妻」の部分はジャッキーの献身によって順調にキャリアの道をのぼりつめていく夫との離婚によって失ってしまったた
め、より「賢母」であることに執着する様が見ていて切ない。懸命に生きてきたジャッキーが自分の生き方をイザベルとの出会いによって振り返って見るのかと思って見ていたが,残念ながら結末は急カーブを描いて予想を裏ぎった。

50年代以降、ケネディ家に象徴される聖家族を追い求めてきたアメリカ社会は、増加する離婚率やセクシュアリティの多様化によってその理想に揺らぎを感じているのだろうか?あるいは現代に応じた規範を示す必要があったのか?

映画はジャッキーとイザベルが「子ども達の過去は私(ジャッキー)のものだけど、未来はあなた(イザベル)に託したい」と話あったシーンから、21世紀の「新しい聖家族」の感動巨編のつくりとなり、私の中では映画自体のテンションもイザベルの存在感もぐっと下がったように見える。

前日の言い争いの時には「子どものことを最優先に考えることはできない」と言い放って出て行ったイザベルが「子供たちはこの先ずっと自分と彼女を比較し続けるだろう」と言い出すその心境の変化を映画は描いていない。あれほど「とんだ女」のイザベルでも、子の母はこうあるべきという刷り込みが強いので「変節するのは当然」とするものなのか?あるいは描きようがなかったのか?映画「グッドナイトムーン」の原題は「STEPMOM」継母である。原題の「STEP」は「~への歩み」の意味も持つ。MOMへのSTEP=母への道のりと読めばイザベルの変身は当然となるという意図か?

この映画では「母」に視点があたっているため、母性神話の刷り込みに目が行くが、実は映画で語られない部分に別の刷り込みが行なわれている。

才能に恵まれ、良いスタッフに囲まれて仕事も順調なイザベル、傍目には何不自由ないと思えるのに、有能とはいえ子連れの中年男とどうして結婚までするのか?ルークとイザベルの恋愛のスタートは映画以前の物語としてカットされているが,語られていないがゆえに、ある刷り込みを当然とする映画製作の意図を感じる。その刷り込みとは「女の幸せは結婚」というものである。どんなに仕事が順調でも、それだけでは女は100%の幸せを感じないのだという巧妙な刷り込み。

「ルークを愛していく中で自分自身を愛しそして子どもも愛していく」というセリフは子ども最優先にしない宣言のようにも聴こえるが、結婚をゴールとする社会規範の枠内での制限された解放でしかない。「理想の母親像」の刷り込みと「結婚によってしか自分の幸せは実現できない」のダブル刷り込みをこのセリフが如実にものがたっている。

資本主義社会が核家族に押し付けた2つの‘care’―子育てと介護

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キーとなるセリフ②
ジャッキー:今度の結婚が成功すると思うのはなぜ?前は失敗したのに・・・
ルーク:・・・
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資本主義社会は社会の要請として男女の性役割分担を強化してきた。「公」で仕事をする男と、「私」で家事・子育てをする女。その中で資本主義社会は核家族に2つの「care」を担わせた。ひとつめの「care」は次世代の育成、子育てである。ひとつめの「care」は映画の中で充分に描かれている。ルークの無言の返事をどう読むかは観客にゆだねられているのであろうから、映画では描かれていないもうひとつの「care」をルークの無言の返事の延長として勝手に読み取ってみる。

順調に役割分担を生きてきたはずのルークとジャッキーの夫婦が離婚せざるを得なくなり、子ども達の「STEPMOM」が必要となってくるが、そのSTEPMOMが受け持つ段階は子育てのみ、次のSTEPにはまた別の「STEPMOM」が必要となってくる。それが資本主義社会が核家族に押し付けたもうひとつの「care」、介護であるという後日談はどうだろうか。

ルーク&イザベルの夫婦は順調に子育てを終え、2人の子どもの巣立ちとともにイザベルも仕事に復帰するが、充実した時はルークの親の介護によって平安を破られる。ルークは仕事優先の価値観のままで、介護はイザベルに廻ってくる羽目になり・・・。介護を押し付けられて疑問に思ったイザベルは離婚を言い出す、かすがいのはずの子どもは継子だった・・・。そんな結末が思い浮かぶ。次のSTEPMOMをさがすルークに未来はあるのか?それとも、金で解決?

この映画に限らず、メディアは意図して語っている部分(この映画では母性神話)と、それを浮き上がらせるためにあえて語らない部分があるというのを忘れないようにしたい。イザベルがどうして結婚に踏み切るのかもそうであるが、ジャッキー&ルークが離婚に至るまでのジャッキーの心理もここでは取り上げられていない。内助の功に徹するほかなかったジャッキーが、夫のSTEPUPをどう見ていたのか?ルークはどんな価値観を生きた男だったのか?これらの部分を避けたために、ルークは無言の返事をするしかなかったのである。

ジュリア・ロバーツ出演作に見るハリウッド映画の「女の道」

彼女の出世作は「プリティ・ウーマン」だろう。ハリウッドの娼婦が天性の明るさで金持ちの実業家をとりこにするシンデレラストーリー。映画のキャッチには「現代版マイ・フェア・レディ」が使われたはず。

「愛に迷った時」で夫の浮気を目撃し、家を飛び出したすえ、父親の不倫や自分も浮気にトライしたりする。どたばたの中で,自分を見つめなおし新しい生き方を模索するとか、「ベスト・フレンズ・ウエディング」ではキャリアウーマンながらも元彼の結婚話に動揺する。28歳が晩婚化の限界だったのはこのころかも。キャリアでさえも女の幸せには「恋愛」や異性から愛情の対象として見られることが欠かせないとするのは,日本での事件・東電のキャリア女性が売春のはてに殺された事件を思い出させる。

この後、テキストとなった「STEPMOM」にでて、超ヒット作「ノッティング・ヒルの恋人」に続く。この映画では、世界一有名な大女優とただの男が住む世界の違いを乗り越えて結婚にゴールインする。この映画のキャッチにもなつかしの映画が比喩に使われている「現代版ローマの休日」。しかし立場が「プリティ・ウーマン」とは逆転している。

プリティ・ウーマンは‘90年、この作品は’99年、約10年かかってジュリア・ロバーツは女の道をのぼりつめたのである。フェミニズムなんかを声高に叫ばなくても、こうやってのし上がることは可能なんだという生きた実例としてのジュリア・ロバーツがある。女のいろいろな側面を演じてきたジュリア・ロバーツだが、それらはすべてハリウッドの王道映画であり、「ベスト・フレンズ・ウエディング」で共演したキャメロン・ディアスが「彼女を見ればわかること」等に安いギャラで出演し、アメリカの女性の出口のなさを演じるようなことは彼女はしていない。

しかし、テキストの「STEPMOM」では、シナリオに共感し、もう1人の女優スーザン・サランドンとともに女優がタブーとされる製作総指揮へクレジット参加したと映画の説明にはあった。ハリウッドにおけるタブーをこのように越えていくことと演じる女像がハリウッドの求める規範を忠実になぞるということが1人の女の中に共存する。

このあとの主演作が「エリン・ブロコビッチ」であるのは,ある種象徴的にさえ感じる。「女」を武器にして勝利を勝ち取るという役柄を生き生きと演じていたジュリアは自分の存在と演じる役の間のずれ=ハリウッドが求める社会規範と自分自身の価値観とのずれ、を意識しながらこのエリンを演じていたと読むのは私自身の希望の重ね合わせかもしれない。

2003/5/13提出

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