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茨城大学生涯学習講座⑤(2003年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座を受けた記録⑤

1回から最後までのメモも見つかったので、課題と一緒にアップ。

 

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第1回 4月22日(火)第5講時 茨城大学教養科目公開講座「ビデオで見るジェンダー論」

昨年末、茨城大学の生涯学習公開講座で同様の講座があり、興味を持って楽しみに出かけたんだけど、受講者が長谷川幸介ファンの中高年の女性がほとんどで、ジェンダーのジも知らないって人がほとんどだったみたい。映画を見た後の話あいもそんなわけで盛り上がらず、先生と対で話してきてしまった感があった。もの足りなくて消化不良のまま&納得できないでいたら、今年の大学の学生向け教養科目で行なうと案内をもらい、速攻で受講希望を出した。というわけで、大学生に混じってジェンダーのお勉強。

第1回目の今日はオリエンテーション。当初通常の教室で行なう予定が、講座受講学生が多くなったので、大きな教室へ変更となった。そりゃそうだろう、映画を見て、感想を言うだけみたいな講座紹介だったもの。わたしが学生でも単位取るのに楽な講義って思ったと思うよシラバス見て。

100人以上はいると思える教室に、びっちり学生さん。簡単なレジュメが1枚廻ってきて、それをもとにこれから何を学ぶかについて長谷川先生が面白おかしく話すのだけれども、回りの雰囲気やのりはイマイチ。いつもなら講演でこの辺で笑いが取れるはずのところでもシーンとなってしまって、こんな先生見るのは初めてかも。学生相手だと初めはいつもこんな感じなんだろうか?

社会学を学ぶってここに来た学生なんだろうけど、受験のための勉強しか知らなかった学生にとって、この講義が何の役に立つのか、がピンと来てないらしい。自分の学生時代も同じようだった、「学ぶために学ぶ」ころと、必要に迫られて・興味を持って知りたいと切望して、ここに学びにきているのとの差。こういう学生たちが映画を見て、何を感じたと発言してくれるのか興味津々。一般の受講者は私のほかに同年齢くらいの、ピシッとしたスーツ姿の女性が1人。

一般受講生向けの案内には全10回の講座とあったのだけど、学生向けのを大学の掲示板で見たら、半年間にわたって行なうとでていた。どっちが本当?取り上げる映画も書いてあって「ダラス」「リトル・ダンサー」「ボーイズ・ドント・クライ」などがあがっていた。リトル・ダンサーは昨年の生涯学習公開講座でも取り上げた映画だったけど、たまたまその回は自分は都合が悪くてお休みだった時。その時の話あいが、受講していた人たちから「ジェンダーに関係ない」って言われて先生ショックだったとか言っていたから、先生のリベンジ映画なのかも。

第2回 5月6日(火)第5講時 「グッド・ナイト・ムーン」鑑賞

STORY・・・
イザベル(ジュリア・ロバーツ)は有能なファッションフォトグラファー、自分の倍ほどの年齢の敏腕弁護士と付き合っている。彼には3年前に離婚した前妻との間に2人の子どもがいる。その子供たちが遊びにくるときにはいつもイザベルといさかいが起こる。原題は「STEPMOM」継母が完璧な前妻をみならい、年頃の子供たちの母となるべく奮闘努力するお話。

一方前妻ジャッキー(スーザン・サランドン)は子供ができたせいでキャリア編集者の仕事をやめ、完璧な妻&母を生きてきたが、どんどんキャリアアップしていく夫は家庭を顧みず、だんだんと疎遠になってついには離婚に至った。自分よりずっと若く、キャリアももつイザベルに夫を奪われ、子どもたちもだんだんとイザベルになついていく。挙句にガンに冒され・・・。

見所・・・
子どもへの対処の仕方をめぐって口論になった2人の女、ジャッキーが子どもにとって最前の方法をとり、気配りも必要という。それに対して、イザベルが自分も子育てに懸命だった、しかし子どものことを最優先に生きることはできないと言い放ち去って行く場面。

この後イザベルが自分の言ったように子育てするのかと思いきや、この辺からストーリーは急カーブを描いて感動巨編のつくりになっていく。そのあたりで、自分の期待は大外れ、ちょっとうるっと来ていた目も、見えている画面に「ほんとかいね」と、ぱちくりしばたいてすっかりドライ目。

喧嘩のあと、また2人が今度は冷静に話し合う。完璧に母親役を実行してきたジャッキー。そんな彼女の代役は自分にはできないと告白するイザベル。「子供たちはこの先ずっと自分と彼女を比較し続けるだろう」そのイザベルにジャッキーは、「子供たちの過去は私のものだけれど、未来はあなたのものなのよ」と答える。

これで学生さんたち結構泣けて感動してたみたいです。来週はこの映画を元に講義&話し合いらしい。最後に先生からポイントのチェックをされる。長谷川先生いわく、「ジャッキーは11年前に仕事をやめていて、長女の年が12歳。感動で見ていてはいけない、これをサブミナル効果といい、観客の中に理想の女像を刷り込んでいるのだ」と。そんなのわかってらいと思うのはおばはんだけかも。宿題は映画の感想を今日のレジュメに書いて来週提出。

 

第4回 2003/5/20(火) 第5校時 「息子」鑑賞

「息子」あらすじ
東北岩手の農村の父、三国連太郎から東京で働く次男のもとへ電話が入る。「母親の1周忌だから必ず帰郷してこい」。法事の晩、長男次男長女と近所の縁戚が集まった席で、今後の父親の暮らしをどうするかの相談となる。母に先立たれ、不自由な暮らしをしている父を長男が千葉のマンションに呼び寄せようと言うことで話がとりあえずまとまる。

次男は職を転々とするうちに、職場で見かけた女性に恋心を抱くようになる。その女性にあう為に仕事がはじめて長続きするようになり、やっとの思いで自分の気持ちをその女性に告げ、交際がスタートする。

父が千葉の長男のマンションへ戦友会の集まりを兼ねて泊まりに行くと、長男からここで一緒に暮らすように提案される。狭い一室での暮らし、自然のまったくないマンション暮らしはできないと父は告げる。戦友会の集まりのあと、次男の様子を見にアパートを訪れると次男から「結婚しようと思っている」と美しい女性を紹介される。聾唖者であるが、清楚なその女性と気がかりだった次男が結婚すると聞き、父はうれしさでいっぱいになる。その女性とのコミュニケーションのためにFAXを買い込み、長く留守にした岩手へと帰郷する父。

誰もいない雪に埋もれた家に入り、ストーブに火を入れた瞬間、父は幻想をみる。出稼ぎから帰った自分を迎える昔の我が家。囲炉裏端に家族全員が集って食事をしている。みやげ物を渡すと歓声を上げてよろこぶ子どもたち。身体をいたわってくれる今はなき妻の若いころの姿。祖父祖母も暖かいまなざしを自分に向けてくれる。しかし、それは幻想であり、ストーブの火の瞬きとともに消え去ってしまった。

第5回 2003/5/27(火)第5校時

授業の冒頭、先日私が提出したレポートが印刷され、レジュメとともに資料として配布される。長谷川先生から、紹介があり、20分ぐらいこのレポートについて話すよう突然のフリ!

聞いてないよと思いながらも、教壇に立って自己紹介の後、簡単にレポートの内容を説明する。学生さんたちは、聞いてくれないかと思いきや、刺すような視線を向けてくる。が、途中で質問を挟んでも反応はうすく、長谷川先生がくどいように念を押す話し方をする気持ちがよくわかる。その後先生の講義に移る。

先週視聴した山田洋次監督の「息子」(原作は椎名誠)を題材に日本における家父長制から近代家族への変遷の説明。次週まで宿題として3つ出される。「提出したレポートが授業のレジュメに採用された人は授業に出なくてもAをあげます」と長谷川先生の説明があると学生さんたちはにわかだつ感じ。「レポートの量はどのくらい」と間髪いれず質問まででて、なんとも現金な・・・。いや、私もそうだったよなぁ学生のころ・・・。

課題1 父親の背景にある農家の家族と息子にある近代家族における父親像について
課題2 一番感動したシーンとその理由を述べ、ジェンダー視点で検討せよ
課題3 あの後、父親を取り巻く環境はどうなっていくと思うか?各自のイマジネーションで完結させてみること

第6回 2003/6/3(火)第5校時

映画「チャンス」鑑賞
あらすじ
‘85年に「カラー・パープル」でデビューしたウーピー・ゴールドバーグ主演のコメディ。ウオール街で働く優秀な女性ローレル(ウーピー・ゴールドバーグ)は、頭で勝負する投資コンサルタント。すばらしいアイデアを取引先に提示するが、取引先をストリップに連れて行っていい気持ちにさせて契約しようとする同僚の男性フランクに契約を横取りされ、そのおかげで出世もできなかった。そこで自分で会社を作り独立しようと考えた。だがやっぱり男社会。いいプランがあっても、女では誰も相手にしてくれないのだ。そこでローレルは架空の男性「カティー」を登場させる。カティーというビジネス・パートナーのお陰で、成功し会社はドンドン大きくなっていく。

しかし、仕事が上手くいけばいくほど、カティーの名声は広がっていくばかり。実際にはローレルのお手柄なのだ。そんなときNYの証券取引委員会からカティーがインサイーダー取引疑惑で呼び出されることになる。男装して急場をしのいだローレルだが、追っかけの記者たちに追いかけられピンチ、その時取引先の社長の車が「カティ」を拾ってくれた。助けられた車中で取引先に「証券委員会からかけられた疑惑はローレルに罪をかぶせてしまえ」とアドバイスされ、ついにローレルは切れる!

「カティ」を抹殺することにしたが、もともと架空の人物を殺すのは難しい。秘書のサリーと共謀し事故に見せかけてカティに扮した人形ごと車を爆発させて一件落着のはずが、殺人容疑でサリーともども逮捕されてしまう。無実を証明できずにいたとき、カティが架空の人物というからくりを知ったフランクがローレルと同じ手を使いカティの相棒になりすまし「カティ」を再登場させてしまう。

おかげで殺人の疑惑は晴れたが、カティをフランクに奪われてしまったローレルは失意の日々。そんな中今年もっともすばらしい業績を残したビジネスマンにカティが表彰されることになり、代役でフランクが授賞式にでると知ったローレルは、カティの扮装で表彰式の場にお忍びで出かけ、唖然とするフランクやビジネスマンの前で扮装をひとつひとつ脱いでいく。カティがローレルと解った時、はじめに拍手してくれたのは、給仕などをしている黒人やその場に入ることを許されない黒人や女性たちだった。

 

 

第7回 2003/6/10 休校

第8回 2003/6/17 第5校時

前回の映画鑑賞を踏まえて講義。
日本の女性の就業形態を主に話される。学生さんに卒業後就職する人と聞いたら100%、結婚したら退職する人、子どもが生まれたら退職する人、子どもが2人になったら退職する人、と尋ねていくと数人ずつ増えていくが、ほとんどは定年まで職を持つという。そういう希望とうらはらに仕事をやめざるを得ない女性の状況を丁寧に話してくれるが、聞いていてつらい。教室の雰囲気も暗くなったような気がしたくらい。

女性が働きつづけるにはどういう環境整備が必要かとの問に、父親の家事育児参加や給料形態の見直しまでしか意見が出ない。もっと自由な発想をと長谷川先生が言うが、まだ実感がないのかもしれない。「結婚しないで子どもを持つとか思う人はいないの?」との先生の問いに、隣の学生さんが手を挙げた。

先日読書会で、日本のシングルマザーの状況をUさんが実体験を踏まえて話してくれたが、その手を挙げた彼女は先進的な意識で手を挙げたのが見える。そうはいかない状況を彼女がしるよしもなく、落ち込んでしまう。

講義終了後、先生と話をしてたらおもしろそうな冊子を見せてくれた。ジェンダーフリー教育は日本を滅ぼすという趣旨のその冊子はつくば大の教授が出したもの。H市で男女共同参画のフォーラムなどの参加している長谷川先生に、冊子とH市長宛の公開質問状のコピーが添付してあった。

ジェンダーフリー教育に待ったをかける「会」がH市にはあるらしく、そこからおくられてきたアンケートについていたものだった。冊子をざっと見た感じはマルクス主義=共産党=ジェンダーフリーと結びつけたものらしく、読んでいて気持ちの奥が重くなる感じがした。

戦争に向かうころの歴史を習っている時のような気持ちがする。

第9回 2003/6/25 第5校時

Boys don’t Cry鑑賞

性同一性障害のブランドン(解剖学的な女・精神は男)がホモフェビアの果てに惨殺されたアメリカの実話の映画化。主演したヒラリー・クワンクは1999年アカデミー賞主演女優賞を受賞した。

以前映画公開されたときに渋谷の映画館に見に行って、なんともやりきれない思いで館を後にした。「今日見る映画は~」と長谷川先生が紹介した時には、その時の重さがよみがえってきて、見ないで帰ろうかどうか迷った。気分は重かったが、見逃したシーンや確認のためにと、気持ちを奮い起こして見る。

映画鑑賞後、エンドロールに実話であるためのその後の犯人の刑についてや、ラナ(主人公が恋する女性)のその後の逸話などが紹介されたにもかかわらず、長谷川先生が「この映画は実話です」とコメントすると、隣の学生さん(女性)が「うっそぉ」とひと言。

前期講座であるこの講座も後残り1回、どうも予定の講義がすすまないらしく(休校も1回あったし)次回7月の頭には2校時あるいは2日連続で講座を持つかもしれないとお話がある。

 

第10回 2003/7/1 欠席

第11回 2003/7/8 欠席

第12回 2003/7/15 第5校時 映画ウォーターボーイズ鑑賞

妻夫木聡主演の邦画ヒット作ウォーターボーイズの鑑賞。次回が講座の最終回になるが、そのときにこの映画のレポートを提出してもいいよと先生の言葉、「青春映画ですが、ジェンダー視点で見てくださいね、難しいと思うけど」だそう。

今まで提出されたレポートの中でAのものを配布される。最終回の宿題はこのレポートの感想を書きなさいというもの。私のレポートもAをいただけたらしく、配布される。他に数人のレポートが配られたが、視点がおもしろいものばかり。

第13回 2003/7/22 休講

第14回 2003/7/29
今日で講義終了。テスト及び夏休みなので教室はいつにもまして、がらんとしている。最後にどうしても話しておきたかったこととして、先生が「科学の視点を持つこと」を熱をいれて語ってくださる。言葉を話すことによって概念・世界を知るように自分たちは育ってきたが、その言葉の存在が「知る」ことの裏返しとして必然的に自分たちをその概念で縛られる。文化規範の中で育って、知らず知らずのうちに身につけたその縛りを科学の目をもつことによって破ろう、と。自らがつくっている枠をはずして自らを発見する、その知恵が科学である、と。

男性非婚率世界一を誇る日本の「もてない君」ものがたり

■テキスト 「ウォーターボーイズ」

この映画の主役級の5人の男子生徒のキャラクター付けをよくみると今の男性に課せられたジェンダーの一部が見える。

役柄 、演者 、描かれているキャラクター 、好かれないわけ、望まれる「らしさ」に分けて並べてみる。
役柄:鈴木智
演者:妻夫木聡
描かれているキャラクター:気弱男
好かれないわけ:決断力なし
望まれる「らしさ」:男性は女性をリードする

役柄:金沢孝志
演者:近藤公園
描かれているキャラクター:ガリ勉
好かれないわけ:運動音痴、三高でもドンくさい
望まれる「らしさ」:男は運転・泳ぎ・テニス・スキー等が上手

役柄:早乙女聖
演者:金子貴俊
描かれているキャラクター:女々しい
好かれないわけ:女々しさがおかまっぽい

役柄:太田裕一
演者:三浦哲郎
描かれているキャラクター:ダンスオタク/ヤセ
好かれないわけ:体格が貧相・オタク的嗜好

役柄:佐藤勝正
演者:玉木宏
描かれているキャラクター:マッチョ
好かれないわけ:勘違い体育系
望まれる「らしさ」:マッチョでも顔はさわやか系

日本の急速な少子化の原因として女性の高学歴・晩婚化が言われるが、その裏にある男性の非婚率はあまり注目されない。男性の非婚率は世界一である。結婚観については、働きつづけたい女性が増えパートナーに家事協力を得たいとしているにもかかわらず、男性の側は伝統的な専業主婦志向を抜けきらず、よって結婚したくてもできない男性像と、大変ならば結婚しなくてもいい女性像が浮かび上がる。

このような時代を背景として男性の「もてる/もてない」は昔に比してより切実なものとなっているのではないか。見合いという習慣があり、いつかは結婚するものとされた時代には、100%意に添わなくても結婚はするものという規範のしばりがあったが、今は理想の相手にめぐり合わなければ結婚しないという時代になったのである。そのような時代の青春映画「ウォーターボーイズ」は、男らしくない男を主役にたて、結婚観を大きく変化させてきた女性の中の、変わらない理想の男性像をあぶりだしたといえる。

男らしくない男たちが、男にふさわしくないシンクロをすがすがしく演じ、喝采を浴びることで、そのような「らしさ」や「ジェンダーのしばり」などくそくらえと笑い飛ばした爽快感がある。「男らしさ」ではなく「自分らしさ」を追及した男子生徒が結局は彼女をゲットするというハッピーエンド。

映画の登場人物に近い世代の大学生たちがこのような講義を受け、これからの時代をより生きやすいものにしていってくれるという期待も感じ、最後のテキストにふさわしいと思った。

2003年7月29日提出

 

茨城大学生涯学習講座④(2003年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座を受けた記録④

ビデオで見るジェンダー論課題

Boys don’t cry/泣いたブランドンは「男」じゃない

■テキスト「ボーイズ・ドント・クライ」
この映画は性同一性障害を描いたものとして知られるが、ヘイト・クライムの恐ろしさのほうがインパクトが強い。彼が亡くなった今となっては彼の内部を知る由もないが、彼が本当に性同一性障害だったのかという疑問が消えない。性同一性障害を含む、同性愛者のセクシャリティの混乱に視点を向けたい。

1993年、事件が起こった場所はアメリカ中西部ネブラスカ州、フォールズシティ。一目ぼれした女性がいるにしても、どうしてブランドンはカリフォルニアへ向かわなかったのだろうという素朴な疑問を映画を見た当初抱いたのを記憶している。カントリーミュージックが似合うアメリカの片田舎より西海岸へ行けば彼は殺される程のことはなかったのではないかと思えたからである。彼がこの地に残ったのは、彼の中の男の嗜好(保守的なマッチョ男が好きだった)がこの地にぴったりだったのではないだろうか。

体つきこそ華奢ではあるが、振舞はマッチョそのもののブランドン、アメリカ的マッチョ男が好きで同一化したかった。「レズではない」と何度もブランドンは口にしている。彼は自分は男であって、女を好きになる同性愛者ではないと思っていた。彼が好んだ保守的な片田舎のマッチョ男は、思想としてホモフォビア(同性愛嫌悪)を併せ持っている、そのことの危険性に気づかなかったのか?危険性を知っていても、それ以上にマッチョ男に同化したいほど、その文化になじんでいたのだろうか。中西部の田舎育ちにとってカリフォルニアに代表されるゲイ文化は異文化そのものだったのだろう。異文化の中で暮らす不安よりは子どもの頃からなじんだマッチョ文化の中に潜むほうが彼にとって安全に思えたのかもしれない。

しかし、ヘイトクライムの犠牲者となってはじめて彼はマッチョ男文化の全容を知り、それに単純にあこがれていた後悔とともに、自己のアイデンティティをじっくりと考え始めたのかもしれない。レイプ事件の後、旅立ちまでの時間のブランドンの表情が印象深い。レイプされるはずのない男である自分がレイプされる=自分は男ではないという思い。そして、ラナとはじめて女として抱きあったことで、自分のセクシャリティを意識し始めた彼に起こる微妙な変化に同調するようにラナも戸惑いを覚えたようだ。一緒に旅に出ようと誘うブランドンのキスを避けている。彼女も同じように自分のセクシャリティは何?という混乱の中に放り出されてしまったからであろう。

ヘイトクライムはレズに向けられる時は「レイプで矯正してやる」的な犯行になることが多く、ゲイに向けられた時は、殺人に至ることが多いという。この事件は殺人に及んでしまった「めずらしい」事件である。ホモソーシャル的な仲間意識をもってしまうほど男に同化していたブランドンに裏切られた思いを持った男たちに、彼らのセクシャリティの危機を感じさせてしまったことが殺人に結びついたのであろう。それほどマッチョな振舞の似合ったブランドンは、しかし本当に性同一性障害=男だったのだろうか?

2003年7月29日提出

茨城大学生涯学習講座③(2003年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座を受けた記録③

ビデオで見るジェンダー論課題
■テキスト「チャンス」

ウーピー・ゴールドバークはオヤジをめざす!~フェミニズムの系譜の中の反省

「見えない壁」「ガラスの天井」と言われる、女性の社会進出や昇進を阻むしくみについて映画は言いたかったのだろうが、学生さんたちの笑い声をききながら、同じような体験を見聞きしてきた身としては笑えない現実にやりきれなさを感じる。こんな描かれ方ではスカッとしない。そんなにうまくいくわけないし、デフォルメされた荒唐無稽な男/男社会の描かれ方には深みもリアリティを感じないし、まったくのB級映画である。またさらに、このような映画が「フェミニズム」として認識される危険性を非常に強く感じる。

フェミニズムは現在も様々な視点から検討が加えられつつある理論である。フェミニズムの系譜を丁寧にたどれば、それが発見された時からは想像もつかない地点に今あることがわかる。21世紀の私たちがめざすのは、いわゆる「男女平等」ではないのである。

この映画の主役ローレルにもっともふさわしいセリフは「It’s not fair!」ではないか。自分の立てた企画を利用し顧客との契約にこぎつけ出世していく男に対して、そしてそれらを支える男社会に向かってローレルはそう叫びたかったに違いない。多くの女性が同じ思いを抱きながらフェミニズムに出会ったはずであったが、ちょっと前までのフェミニストたちはその「unfair」な思いを男女平等という形ではらそうとした。

女性の社会進出をしやすくする環境を整えるということが、女性の能力に見合った、より高い賃金/地位/権力に結びついてしまった。それらは上野千鶴子が「オヤジ社会&オヤジ」と言って唾棄すべきものとした父権性的イデオロギーであり、倒すべき敵がたどった同じ道を女性も平等を叫びながら加わってしまったという過程がフェミニズムの系譜の中に、しかもごく近い年代に在る。

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私はフェミニズムを、ずっと弱者の思想だと思ってきた。もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれる、という思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。弱者が弱者のままで、それでも尊重される思想が、フェミニズムだと、私は考えてきた。
だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採らない。相手から力づくで押し付けられるやり方にノーを言おうとしている者たちが、同じようにちからづくで相手に自分の言い分を通そうとすることは矛盾ではないだろうか。弱者の解放は「抑圧者に似る」ことではない。
(上野千鶴子:日本女性学会ニュース89号/朝日新聞2002年9月11日)
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映画のラスト、ローレルの秘書サリーが元上司のフランクを面接で落とす場面がある。溜飲の下がる場面だろうか?こうやって溜飲を下げることを私はよしとしない。サリーの服装の変化を見逃したくない。ローレルの秘書をしていたころはいかにも中年女性風のセーターやカーディガンをまとっていたサリーの服装に変化が現れはじめ、ついにこの場面では紺のジャケットを颯爽と着ている。やはり、この映画は「男なみ」を目指した一時代前のフェミニストたちの間違った方向を描いているように思える。

2003年7月29日提出

茨城大学生涯学習講座②(2003年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座を受けた記録②

■テキスト グッドナイト・ムーン(原題:STEP MOM)

資本主義社会の忠実なメッセンジャー―ハリウッド映画による2つジェンダーの刷り込み

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キーとなるセリフ
ジャッキー:子どもたちにとっていつも最善の方法をとるのが母親の役目
イザベル:自分も懸命に子育てをしてきた・・・が,子どものことを最優先に考えることはできない・・・ルークを愛していく中で自分自身を愛しそして子どもの愛していく
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この映画のようにアメリカでも、もちろん日本でも「母親の愛」は母と子の利害が生涯同一であることを自明のものとしてきた。母のよしあしをはかる基準は両者の利害が同一であることを,いかに真剣に母親が考えているかによる(ジャッキーのセリフ)。つまり「良妻賢母」となること。よき妻も賢い母親も夫・子がいないと成り立たない。良妻賢母は主体を放棄することによって成り立つネガな主体とでもいおうか。

アメリカにおいてもっとも良妻を演じなければならないのは大統領夫人(候補者も含む)である。夫の後ろに(3歩下がって夫の影を踏まず?)常によりそい、夫の演説する姿に心から聞き惚れ賞賛のまなざしを送る。これはアメリカ社会の理想となる聖家族を演じているためである。

一方この映画で描かれているのは「良妻賢母」の「賢母」の姿である。大手出版社のキャリア編集者としての仕事と子育ての二者択一で、子育てを選んだジャッキーに残された自己実現の道は「良妻賢母」になるというものだけだった。「良妻」の部分はジャッキーの献身によって順調にキャリアの道をのぼりつめていく夫との離婚によって失ってしまったた
め、より「賢母」であることに執着する様が見ていて切ない。懸命に生きてきたジャッキーが自分の生き方をイザベルとの出会いによって振り返って見るのかと思って見ていたが,残念ながら結末は急カーブを描いて予想を裏ぎった。

50年代以降、ケネディ家に象徴される聖家族を追い求めてきたアメリカ社会は、増加する離婚率やセクシュアリティの多様化によってその理想に揺らぎを感じているのだろうか?あるいは現代に応じた規範を示す必要があったのか?

映画はジャッキーとイザベルが「子ども達の過去は私(ジャッキー)のものだけど、未来はあなた(イザベル)に託したい」と話あったシーンから、21世紀の「新しい聖家族」の感動巨編のつくりとなり、私の中では映画自体のテンションもイザベルの存在感もぐっと下がったように見える。

前日の言い争いの時には「子どものことを最優先に考えることはできない」と言い放って出て行ったイザベルが「子供たちはこの先ずっと自分と彼女を比較し続けるだろう」と言い出すその心境の変化を映画は描いていない。あれほど「とんだ女」のイザベルでも、子の母はこうあるべきという刷り込みが強いので「変節するのは当然」とするものなのか?あるいは描きようがなかったのか?映画「グッドナイトムーン」の原題は「STEPMOM」継母である。原題の「STEP」は「~への歩み」の意味も持つ。MOMへのSTEP=母への道のりと読めばイザベルの変身は当然となるという意図か?

この映画では「母」に視点があたっているため、母性神話の刷り込みに目が行くが、実は映画で語られない部分に別の刷り込みが行なわれている。

才能に恵まれ、良いスタッフに囲まれて仕事も順調なイザベル、傍目には何不自由ないと思えるのに、有能とはいえ子連れの中年男とどうして結婚までするのか?ルークとイザベルの恋愛のスタートは映画以前の物語としてカットされているが,語られていないがゆえに、ある刷り込みを当然とする映画製作の意図を感じる。その刷り込みとは「女の幸せは結婚」というものである。どんなに仕事が順調でも、それだけでは女は100%の幸せを感じないのだという巧妙な刷り込み。

「ルークを愛していく中で自分自身を愛しそして子どもも愛していく」というセリフは子ども最優先にしない宣言のようにも聴こえるが、結婚をゴールとする社会規範の枠内での制限された解放でしかない。「理想の母親像」の刷り込みと「結婚によってしか自分の幸せは実現できない」のダブル刷り込みをこのセリフが如実にものがたっている。

資本主義社会が核家族に押し付けた2つの‘care’―子育てと介護

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キーとなるセリフ②
ジャッキー:今度の結婚が成功すると思うのはなぜ?前は失敗したのに・・・
ルーク:・・・
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資本主義社会は社会の要請として男女の性役割分担を強化してきた。「公」で仕事をする男と、「私」で家事・子育てをする女。その中で資本主義社会は核家族に2つの「care」を担わせた。ひとつめの「care」は次世代の育成、子育てである。ひとつめの「care」は映画の中で充分に描かれている。ルークの無言の返事をどう読むかは観客にゆだねられているのであろうから、映画では描かれていないもうひとつの「care」をルークの無言の返事の延長として勝手に読み取ってみる。

順調に役割分担を生きてきたはずのルークとジャッキーの夫婦が離婚せざるを得なくなり、子ども達の「STEPMOM」が必要となってくるが、そのSTEPMOMが受け持つ段階は子育てのみ、次のSTEPにはまた別の「STEPMOM」が必要となってくる。それが資本主義社会が核家族に押し付けたもうひとつの「care」、介護であるという後日談はどうだろうか。

ルーク&イザベルの夫婦は順調に子育てを終え、2人の子どもの巣立ちとともにイザベルも仕事に復帰するが、充実した時はルークの親の介護によって平安を破られる。ルークは仕事優先の価値観のままで、介護はイザベルに廻ってくる羽目になり・・・。介護を押し付けられて疑問に思ったイザベルは離婚を言い出す、かすがいのはずの子どもは継子だった・・・。そんな結末が思い浮かぶ。次のSTEPMOMをさがすルークに未来はあるのか?それとも、金で解決?

この映画に限らず、メディアは意図して語っている部分(この映画では母性神話)と、それを浮き上がらせるためにあえて語らない部分があるというのを忘れないようにしたい。イザベルがどうして結婚に踏み切るのかもそうであるが、ジャッキー&ルークが離婚に至るまでのジャッキーの心理もここでは取り上げられていない。内助の功に徹するほかなかったジャッキーが、夫のSTEPUPをどう見ていたのか?ルークはどんな価値観を生きた男だったのか?これらの部分を避けたために、ルークは無言の返事をするしかなかったのである。

ジュリア・ロバーツ出演作に見るハリウッド映画の「女の道」

彼女の出世作は「プリティ・ウーマン」だろう。ハリウッドの娼婦が天性の明るさで金持ちの実業家をとりこにするシンデレラストーリー。映画のキャッチには「現代版マイ・フェア・レディ」が使われたはず。

「愛に迷った時」で夫の浮気を目撃し、家を飛び出したすえ、父親の不倫や自分も浮気にトライしたりする。どたばたの中で,自分を見つめなおし新しい生き方を模索するとか、「ベスト・フレンズ・ウエディング」ではキャリアウーマンながらも元彼の結婚話に動揺する。28歳が晩婚化の限界だったのはこのころかも。キャリアでさえも女の幸せには「恋愛」や異性から愛情の対象として見られることが欠かせないとするのは,日本での事件・東電のキャリア女性が売春のはてに殺された事件を思い出させる。

この後、テキストとなった「STEPMOM」にでて、超ヒット作「ノッティング・ヒルの恋人」に続く。この映画では、世界一有名な大女優とただの男が住む世界の違いを乗り越えて結婚にゴールインする。この映画のキャッチにもなつかしの映画が比喩に使われている「現代版ローマの休日」。しかし立場が「プリティ・ウーマン」とは逆転している。

プリティ・ウーマンは‘90年、この作品は’99年、約10年かかってジュリア・ロバーツは女の道をのぼりつめたのである。フェミニズムなんかを声高に叫ばなくても、こうやってのし上がることは可能なんだという生きた実例としてのジュリア・ロバーツがある。女のいろいろな側面を演じてきたジュリア・ロバーツだが、それらはすべてハリウッドの王道映画であり、「ベスト・フレンズ・ウエディング」で共演したキャメロン・ディアスが「彼女を見ればわかること」等に安いギャラで出演し、アメリカの女性の出口のなさを演じるようなことは彼女はしていない。

しかし、テキストの「STEPMOM」では、シナリオに共感し、もう1人の女優スーザン・サランドンとともに女優がタブーとされる製作総指揮へクレジット参加したと映画の説明にはあった。ハリウッドにおけるタブーをこのように越えていくことと演じる女像がハリウッドの求める規範を忠実になぞるということが1人の女の中に共存する。

このあとの主演作が「エリン・ブロコビッチ」であるのは,ある種象徴的にさえ感じる。「女」を武器にして勝利を勝ち取るという役柄を生き生きと演じていたジュリアは自分の存在と演じる役の間のずれ=ハリウッドが求める社会規範と自分自身の価値観とのずれ、を意識しながらこのエリンを演じていたと読むのは私自身の希望の重ね合わせかもしれない。

2003/5/13提出

茨城大学生涯学習講座①(2002年)

茨城大学の長〇川先生の生涯学習講座とか、学生さんのカリキュラムで一般公開されていたものによく出かけていて、その時の提出課題。

講座は「ビデオで見るジェンダー論」といって、先生が選んだ映画を見てから、小論文を提出するというもの。先生は出欠もとらないし、課題の提出もうるさくないので「楽な講座」と学生さんの間で代々伝わっているらしく、いつも教室は100人以上は入れそうな大きな教室。後ろの方で映画を見ていて、こりゃ楽だね、と思った。

学生時代にこんなこと考える学生なんて、どのくらいいたのかなぁ。

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ビデオで見るジェンダー論課題

ビデオで見るジェンダー論課題
■テキスト「息子」

課題1 父親の背景にある農家の家族と息子にある近代家族における父親像について

三国連太郎演じる岩手の父は、伝統的家父長制を生きた父として描かれている。戦後日本の資本主義の急速な発展によって一つの世代の交替という短い時間の中で、家父長制の内容が変化せざるを得なかった日本のひずみがこの映画ではよく表されている。

■家父長制の父親の背負ったもの
家父長制とは男尊女卑や男性の優位性などといった個人的・個別的事象ではなく、ある種の支配の体系である。それは年長者による年少者の支配、男による女の支配のシステムとして機能し、家庭においては「家」という権力を代々委譲するために機能してきた。

明治末期~大正初期の生まれと思われる父の育った時代は、「年長者は年少者よりすべてにおいて優れ(父&長男>息子&次男)」「男は女より優れる」という規範が社会的合意としてあった時代である。父はその親のもと長男として生まれ家父長制の権力・財産の継承者として生活を営んできたのである。

家父長制の頂点にたつ父は絶大な権力を持つ一方、その社会的な合意によって、個人的な資質を問われないですむと言う利点を有していた。長男に生まれさえすれば、他の兄弟よりも資質において劣っていることが明白であっても、権力委譲は長男にされたのである。個人の資質を権力委譲の対象選定の基準に取り入れることは、家父長制という制度そのものを崩してしまうのでありえなかった。

家父長制の中の男はシステム維持のため、自由は持ち得なかったが、逆に制度によって個人を守られていたともいえる。

■近代社会の父親の背負ったもの
一方、高度成長期の日本を生きた三国の長男は、近代家族の父親として描かれている。近代家族とは、資本主義の発達によって地域社会や大家族の解体がすすみ、核家族化することによって委譲すべき「権力・財産」が変化した家族と言える。「家」という権力よりも「賃金」という権力を選んできたともいえるだろうか。高給を得ることが「権力=ステータス」と変化していったのが近代化の側面であり、いわゆる「家父長制」の財産権力が変化した。

そのため、個人が社会の中に剥き出しで置かれるという状態が現出することになる。不自由ではあるが「家父長制の家」の権力委譲構造の中にいれば個人の能力の高低を問われずにすんでいた男たちは、「金」という権力に乗り換えたため、その「金」をどれだけ得られるかで男個人の能力、そして存在価値までが計られるという状況におかれることとなる。このことは映画の中の長男と次男の描かれ方によく現れている。

勉強ができ、高学歴の長男はホワイトカラーとして都会の一流会社に就職している、よって高給取り。次男は高卒でブルーカラー、低賃金。長男が次男を見下したように接するのは、家父長制の名残である年長者>年少者という身分の高低とともに、より多くの金を稼げる男が男として優秀という近代社会の規範をも背負っているからである。

家父長制の時代から現在まで、権力の担い手たるべき男たちには次のような言葉が幼少から投げかけられ刷り込まれている。「泣くな/逃げるな/負けるな/頑張れ/泣き言は言うな、男は黙って…」。母親や祖父母の声が聴こえてこないだろうか?「ボクは男の子なんだから、泣かないの。強い強い!」と。

自分自身の存在価値が金で計られる社会の中で、負けること許されない男たちは、文字通り死ぬまで働きつづけることを要求されているのである。

「リストラで自殺」などと言う解説が新聞を飾ることがある。一見解りやすい説明がつくことで自殺の原因が理解できたなどど、思考停止状態に陥ってはいけない。彼らが死を選ぶのは、仕事を失ったからではない。仕事をなくしたゆえの=金を稼ぐことができなくなった故の=自身の存在価値を奪われたからなのである。

明治男は気概があるので、生半可なことでは自殺などしないとか、今の時代を生きる男たちがさも弱くなったように述べる論調は真実を見逃している。明治の家父長制を生きた男たちは社会制度に厚く守られていたが、近代社会を生きる男たちを守るものは何もないのである。

課題2 一番感動したシーンとその理由を述べ、ジェンダー視点で検討せよ

岩手に1人戻った父がストーブに火をつける瞬間に見る幻想のシーンに涙する自分を発見する。この涙の成分は何だろう?

暖かい部屋で家族そろって食事をする。みやげ物を子どもに手渡す父、歓声を上げながら包みを開けようとする子どもたち、体を気遣う妻。祖父の温かい目は父に向かって「おまえ(父)は期待通りの息子である」といいたげである。このような場面に感動を受けるのは、自分もまた、寄り添って生きる家族への強い郷愁を持っているからであろう。郷愁とは失われたものへの強烈な恋慕の感情。あの場面は失われた/手の届かない愛にあふれた家族の暖かさを文字通り幻想で見せているのである。「愛だよ、愛」とCMで次男・永瀬が語ったのはちょっと昔のことでした。

資本主義社会が必要とした核家族は、家族制度維持のために愛・性というファンタジーを用いた。資本主義社会の「愛」のからくりに気づいている自分のより深い意識の中に、あの場面に涙する別の自分があり、二面性を意識せずにはいられない。「制度から自由であることは制度に守られないことでもある。個で生きることは、非常なストレスを生む。資本主義が高度に発達した近代社会で個を優先させて生きることは本当に人間らしい生き方と言えるのだろうか?」と深層の自分が表側の自分をゆさぶり問いかける。その答えは?

愛あふれる家族、言い換えれば、人は親密な関係なしには生きられないのであろうか。人がもっとも恐れるものは死であろう。死とは永遠の孤独、人々の記憶からも忘れ去られる。人のもっとも恐れるものは死ではなく、孤独かも知れない。親密な愛に包まれた人間関係を実現する場として家族は強力な磁場を発揮してきた。

しかし、高度に発達した資本主義社会はすでにほころびを露にしてきており、歩調を合わせるように、愛や性を媒介とした親密な人間関係=家族もまたほころびを見せてきている。人が求めてやまない「孤独からの解放=親密な人間関係の中に包まれること」を愛や性のファンタジーから自由にすることは可能なのだろうか?あるいは、親密な関係を持つ人間同士のつながりは家族だけが持つものなのであろうか?さらに考えれば、親密な関係を持たず、固定的でない距離感の人間関係の中で生きることこそ、孤独ではなく本当の自由と言えるのではないか?だとすると、あの涙は自由への恐れの裏返しかもしれない。

【おまけ】村上龍「最後の家族」は、近代家族がどこに向かうのかの一つのヒントに思える。

課題3 あの後、父親を取り巻く環境はどうなっていくと思うか?

長男・長女・次男ともにそれぞれの生活に追われ、また故郷の慣れ親しんだ家を離れがたい父の思いとの折衷案で、父は独居老人として暮らすことになる。たぶん10年ぐらいは1人で暮らせるのではないか。しかし、心臓の薬としてニトロを持ち歩いていることから、一番ありうる可能性としては心筋梗塞による突然の孤独死。その葬式の場が想像をたくましくさせる。

ともに東京近郊で暮らす長男次男に比べ比較的父の近くに住んでいた長女の環境を想像してみる。田舎暮らしを続けていることから結婚相手も長男であることが想像でき、父に同居を申し入れることはできにくい。やむを得ず自分の生活に合わせ足しげく父の下へ様子を見に通っていたが、「家族はともに暮らすもの」の規範が強く残る地方にいる長女にとって父の死を見とれなかったことへの自責の念が強い。家族に愛情深く接することは女の役目であるとするジェンダー規範が働くためである。

長男は職場内の出世に伴い、転勤を余儀なくされる。自分が故郷を捨ててきているため、家族同居を強く主張できない長男に対し、子どもの環境を優先に考える母親は夫の単身赴任を選択する。単身赴任中の不自由な暮らしを続けるうち、長男は故郷の父親の不自由さ・さみしさを実感として捉えられるようになる。出稼ぎの父を自分を重ね合わせてみていたかもしれない。そんな中、父の孤独死が知らされる。長男はいろいろと手を尽くしたにもかかわらず(同居を申し入れたが断られている)、孤独死する父に「自分の面子」がたたない思いを抱く。近代家族の父として今を生きながらも、成長の過程で刷り込まれた規範は家父長制の名残も残しており、家と父を守るべきジェンダーを背負っている長男は、守れなかった自分を肯定的に捕らえることができないのである。

次男は家父長制から見捨てられた「次男」であり、また近代社会の高賃金を稼ぐ男としての役割からも、すでに遠い存在であることを本人もうすうす感じてはいる。結婚相手に聾唖者をえらび、さらに近代社会の周辺で生きることを余儀なくされていく。

社会規範に沿って生きることは、裏返せばその制約の中を生きることである。周辺に生きる次男は権力構造から遠い存在であるが、一方で規範からのある程度の自由/距離をおいて生きることが可能になってくる。このことは人が自分らしく生きる上で非常に重要な意味を持つ。制約から自由であること、あるいはどのような制約を自分は受けているかを自覚を持って生きること(構築された自分自身に気づく)をフェミニズムは「解放」と呼んだのであり、女性解放思想としてともすれば認知されがちなフェミニズムは、実は女だけでなく男も解放する思想だと言うことができる。

映画の中で次男の結婚報告を聞いた晩、父が「お富さん」を熱唱する場面が印象深い。あの場面の父は自分の存在が弱者でしかないことを突きつけられていた。彼もまた権力から見放されることによって、規範からの自由を得たのである。規範に沿うことを強制されない場面で初めて父と子は本音の表出が可能になった。人間の持つ親密な感情はこの時初めて父と次男の間でのみ交わされたのではないか。

次男が職を転々としていたころの父の次男への接し方と、この時以降の接し方が激変していることに注目したい。(家父長制の権力者・父の役割で接していた時/親密な人間関係の当事者同士として)岩手に帰る父はFAXまで携えていた。初めて心を交わした父の喜びが「お富さん」熱唱のシーンとなる。(次男の結婚相手が聾唖者なのもある意味づけを感じさせる)

その後岩手に帰郷した父は前述の幻想をみるのであるが、あの幻想は過去の現実ではない。実際過去のあの場面では、父は家父長制の役割としての自己を演じていたはずであり、感情の起伏を露にしないとか、何か得たいの知れない気分の盛り上がりを感じたが、それを感じること自体を自分に禁じていたはずなのである。

人間は自分の感情を「知っている」と思いがちである。だが、柳田國男が「東北の女性は不安と言う感情が理解できない」と調査研究の結果述べたころと環境がそう変化していない時代に成長した父は、親密な愛情を「覚える」ことはなかったのではないか。役割に沿った振舞を家父長制の中でパターン認識していただけではなかったか?あの幻想の場面は心の交流を次男を通して初体験した父が、こうあることもできたはずの過去として見たのではないか。

岩手で独居老人として暮らしている父は、近所の人にこういわれたかもしれない。「歳とったんだねぇ、(性格が)丸くなっちゃって。お嫁さんとFAXなんかやり取りしちゃってさぁ。」彼は丸くなったのではなく、感情を自分のものとし、表すことができるように、やっとなったのである。たとえ一人暮らしではあっても、孤独死をすることになっても、幸福な晩年だったのではないか。

さて、上記のような思いを抱えた、3人が父の葬式で久しぶりに対面する。父と心の交流を持てた次男は、純粋に悲しみにくれているが長男と長女はそれぞれが抱える自責の念や刷り込まれたジェンダーによって、父の死という悲しい場面でさえ、与えられた役割を演じつづけている。次男はそのような2人に、説明できない怒りを感じ、葬式の最中に2人に言いかがりのように突っかかることを繰り返し、最終的には大騒ぎの喧嘩を繰り広げることになる・・・。山田洋次監督得意の「寅さん」的てんやわんやが起こって、人生の悲哀をそれぞれが感じるエンディングとなる、なんちゃって。

結婚や誕生、葬式という人生の区切りとされるできごとに人が出会う時、人の深層意識に刷り込まれたものが表に出てくることが多い。リベラルな印象を持つ人が、思いがけず前近代的な規範をしょっていることに気づかされたり…。文化とジェンダーは二重螺旋のように複雑に影響しあって今の私たちの中に根付いている。人権問題として単純には語れない。

2002/6/3 提出

UP

むかしむかし~映画の感想㉛

2002年ごろ書いていた映画の感想

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チョコレート

/ 主演・ハル・ベリー 2002年
/ アカデミー賞主演女優賞    (予告編はこちら

アカデミー賞初の黒人の主演女優賞、とびっきりの恋愛なんてうたい文句で、期待して出かけたんだけど、そんなバカなってスクリーンに向かって言いたかったよ。

喪失を受け入れるのは難しいって、「まぼろし」の感想のところで書いたけど、この映画のもう1人の主役ハンクが失った愛=自殺した息子と、親から得ることのできなかった愛の代用品としてハル・ベリー演じるレティシアを「救ってあげる」お話でした。

「愛って何ですか?」って高名なT大のU教授に質問した時の返事を思い出した。「愛は相手を自分の思うがままに支配しようとする暴力的な感情のことです」きっぱりと言ってたけど、ハンクの愛もレティシアの愛も、そのまんま。

喪失感を受け入れられず、何か代用品で心の穴を埋めようとした二人、似たもの同士で引き寄せあった2人が、「愛」ではないもので結び付けられた自分たちを自覚したららしいラストはどう読めばいいんだろう?「とびっきりの恋愛」なんてキャッチをつけた奴はあれをハッピーエンドだとでも思ったんだろうか?

むかしむかし~映画の感想㉚

2002年ごろ書いていた映画の感想

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山の郵便配達

/ 主演 トン・ルゥジュン(滕汝駿) リィウ・イェ(劉燁)
(予告編はこちら

仕事でほとんど家にいることのない父と、不在がちの父になじめない息子を描いていると言う点で今の日本の仕事人間の父親像と重なる部分が多く、「父」という立場について思いを至らせるのにうってつけの映画だと思う。

友達のある若い父親が、仕事が忙しすぎて子どもとかかわる時間が十分に取れず、いいわけともつかないが「子どもとかかわる時間は量ではなくて質」と言っていた。時間もままならない父親はそう思わずにはいられないというのが本当だろう。しかしどれほど「質」と言っても、なじむまでも行かないかかわりのための時間の量の少なさは、質だけでは補えきれない。補えきれないまま、父との微妙な距離感もそのままに子どもは大きくなっていく。そうやって大きくなった子が父の仕事のあとを継ぐことになったところから映画はスタートする。

父が仕事に従事している間、家族のことを忘れていたわけでもなく、父に愛されていなかったわけでもないと子どもが気がつくためには、父と子がこの映画のように向き合う時間が必要なのだろう。あるいは、実際に向き合うのではなく、父の視点で父自身の人生を振り返ることができたら・・・。つまり、父親という役目の負っているものを子どもが自身の中に取り込むことができたら、父という役目(家にいて家族とともに時間を過ごすことのできない立場)ゆえの家族を大切に思う気持ちを理解することができるのではないか。

同行する犬の名前が「次男坊」である理由を思うだでけでも、父の気持ちは痛いほど想像できる。そのような思いを持ちながら、しかし仕事のために家族と離れなければならず、そして家族から離れて暮らす心のうち・思いを口に出して表現することのできない「父」という存在の切なさに胸が痛む。ラストシーン、次男坊が父に挨拶をしてから息子の山行に同行していく姿、見送る父の姿は、何度見ても目が潤んできてしまう。

むかしむかし~映画の感想㉙

2002年ごろ書いていた映画の感想

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talk to her 

/ 主演 ハルビル・カマラ レオノール・ワトリング 他
2002年アカデミー賞最優秀脚本賞 
ゴールデングローブ賞最優秀外国映画賞 (予告編はこちら

事故により植物状態・昏睡状態に陥ってしまった女性アリシアを献身的にケアする看護士、ベニグノ。競技中の事故で昏睡状態に陥ってしまった女闘牛士リディアの恋人マルコは、ベニグノのようにリディアの看護をすることができず、ふさぎこんでいた。

同じ病院で同じような境遇の女性を看護することになった二人の男たちには、いつしか深い友情が芽生えていった。しかし、ベニグノの妄信的な介護は思わぬ事態をまねく。
(あらすじはこちら)

「究極の愛」だというふれこみだった。介護なんて硬い言葉でなく、「ふれるさわるなでる」といった人と人の身体的なコミュニケーションのすばらしさを描いているのだ、と思って見に行った。

だけれども、本当にこれが「究極の愛」なんだろうか?ベニグノのした行為を思うと、嫌悪感しか浮かばない。植物状態を奇跡的に脱したアリシアには、昏睡中に自分に起こったことは告げられていない。「究極の愛」かどうかを決めるのは彼女のはずではないのか?あれを「愛」と呼ぶのはベニグノの側の論理であって、そこに相手・アリシアの意思はまったく考慮されてない。家父長制の中で一方的に「愛」と称され支配を受けてきた、そのことを今変えようとしているのに、こんな映画が「究極の愛」って呼ばれるなんて・・・。

むかしむかし~映画の感想㉘

2002年ごろ書いていた映画の感想

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スイング・ガールズ 

/ 主演  上野樹里ほか  (予告編はこちら
ウォーターボーイズで名を上げた矢口史靖の期待の新作。前作が男の子、今回は東北の落ちこぼれ女子高生を描いている。

前作同様音楽の使い方がとてもうまい。「古臭いおじさんがきく」ジャズをこんなに楽しいものだと思わせただけでもこの映画は大成功。映画を見ていても自然に体が揺れてくる。お約束のようなストーリー展開&キャラクター設定は、他の作品なら、二番煎じになってしまうところが、音楽のよさと楽しさで、余計なことはいいじゃないか状態に観客の気分を乗せ、最後まで突っ走って楽しく見れる。

気の弱い男の子に勇気を与えた前作同様、学校・教師からも親からも見離された「ど~しようーもないやつら=女子高生」たちに、自分たちもやればできると思わせてくれるんではないかと、単純に期待してしまう。この映画のように簡単に楽器が上手くなれるわけないし、そんなに世の中甘くないって思うけれども、それでも自分が楽しいと思えることに「出会える」幸せがいつか自分にもあるかもしれないと、映画を見た子どもたちが素直に思ってくれたら、それだけでもう超ラッキー。「青少年健全育成」なんて看板を下げた行政の事業よりよっぽど世の中のためになってる、間違いない!!!

むかしむかし~映画の感想㉗

2002年ごろ書いていた映画の感想

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スイミング・プール 

/ 主演  ジャーロット・ランプリング2004年
ヨーロッパ映画賞最優秀主演女優賞  (予告編はこちら) 
          
ラストシーン、サラがジュリーにさようならと手を振る場面がすべてを物語ってる。ジュリーはサラが隠し押さえつけていた自己の片割れ、そのジュリーを受け入れそしてさようならをすることでサラは、本当の自分を開き、生き生きと思うままに生きて行けることになった。

サラ・モートンの「こころの旅」の過程がゆっくりと描いてあり、その時々にサラがより美しく変化していく様子をシャーロット・ランプリングの美しさと重ねて見てしまう。あんなに柔らかく、自分自身にさようならと手をふれる、そのシーンを自分自身にも重ねたいと思ってみていた。

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