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むかしむかし~映画の感想④

2002年ごろ書いていた映画の感想

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シッピング・ニュース

主演・ケヴィン・スペイシー 2001年/ ベルリン国際映画祭正式出品(予告編はこちら
児童虐待には身体的暴行・性的虐待・ネグレクト・心理的虐待の4種類あるという。主人公のクオイル(ケヴィン・スペイシー)はふとした瞬間に父親から泳ぎを覚えさせられたシーンがよみがえる。彼の父親は幼い息子のクオイルを海に突き落として泳ぎを覚えさせるような男だった。必死でもがき溺れそうになりながら水面を見上げるとそこにあるのはじっと見下ろす父親の顔、その瞬間の映像が消えることなくクオイルに記憶されている。新聞やTVをにぎわす児童虐待の親の言い分「しつけ」は、親の不当な暴力の実態を隠すための言葉だった。虐待という言葉生み出されて初めてその概念も生み出されたんだ。

記憶って不思議だと思う。あるシーンを数十年たってもリアルに覚えている。その場の匂いや肌に触れる感覚まで、その瞬間に立ち戻ったように、思い出してしまう。そういう思い出が幸福なものであればいいが…。クオイルは父親からずっと虐待といったほうがいい育てられ方をしてきて、自尊心のカケラも無くしてしまった男。自分の壁を作り、その中に閉じこもることでしか自分を守るすべを知らない。

映画のパンフレットの表紙は、クオイルの先祖の一族が忌まわしい事件を起こし生まれ故郷を追われ、住んでいた家を引きずりながら移住先へ向かうシーンが使われている。吹雪の舞う灰色の世界を「家」を引きずっていく家族、移住先は極東の島の岬の先端。崖の上にすえつけられた家は、吹きすさぶ風のため、ワイヤーで凍った地面に縛り付けてある。「崖の上のしばられた家」は人生の隠喩であり、このシーンはこの映画の象徴として忘れられない風景となった。

「家」という忌まわしい重荷を後生大事に引っ張りつづける人生、風土にしばりつけられる家。そしてそういう「家・一族」の結果としての父親の性格とその父に虐待されて育ったクオイル。そんなクオイルが生まれ故郷で、暖かい友人たちに囲まれて人生をやり直していく。クオイルに起こる奇跡が、ワイヤーで縛り付けられた家のその後と重なって語られるラストは印象的。

「崖の上の家」が心象風景として心の中ある、そういう人たちへ。再生はある。

むかしむかし~映画の感想③

2002年ごろ書いていた映画の感想

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運命の女

主演・リチャード・ギア、ダイアン・レイン 2002年 (予告編はこちら
何がすごいって、主人公の夫子持ちの主婦が行きずりのプレイボーイと不倫して、家に帰る途中の電車の中の表情。男との情事を思い出してほてった顔、思わず恍惚の表情になったり、同時に深い悔恨・罪悪感の表情になったり。あのシーンだけでも見る価値があったってくらいすごい。

幸せだけど、ときめきとかには縁のない生活,、予定調和的にきっと一生が終わってしまうはず、安定はしているが先の見通せる生活をしていた「有閑」主婦が、ひょんな事で知り合った男と、ちょっとした浮気のつもりが、快感のとりこになって歯止めがきかなくなり、とんでもないことになってしまう・・・。ありがちなストーリーだけど、映画にひきつけられるのはこの表情のせい。昔はプレイボーイ役でならしたリチャード・ギアが朴訥なまじめ一方の夫役を、ほんとにうまく演じてる。

浮気相手の男は、したたか。こうやればまじめにバカがつくような女でも、引っ掛けられるし、引っ掛けたら、こういう扱いをすれば、しがみつくようになるってのを、知り尽くしているって感じ。いや、「まじめな女でも」ではなく、まじめな女「は」こうすれば「常識の壁が壊れる」=「ものにできる」=「しがみつく」って言ったほうが正しい。

妻が感じていたのは本当の快感だったんだろうか?釣り橋を渡るときのドキドキと人を好きになるときのときめきを人間が勘違いするって言う実験を見たことがある。この妻の感じたのは、もしかするとこの実験のように快感と勘違いするような別の感情だったんじゃないかな。他にも、たまねぎの皮を剥くように、ひとつひとつ自分の感情をきちんと分けて見つめていけたら、そしてそれらの感情が何から構築されたのかが、彼女がわかったら・・・。

そしてもうひとつ、自宅とプレイボーイの家のなんとまぁ驚くべき対比。きちんとしたWASPの家と、自由気ままな空間としての男の部屋。ないものねだりって言っちゃぁおしまいだけど、もしかしたらありえたはずのもうひとつの「私の人生」への憧れとその憧れの生活を今エンジョイしている、自由な(でも危険な)男。

柳田國男が東北の女性が「不安」という感情を理解できてないと、書いてあって、そんなバカなとそのときは思った。でも実際自分の気持ちほど良くわからないものはないって最近思うようになった。自分では楽しいと思っていることが、世間一般の「楽しいはずの物語」をなぞっているだけで、本当の自分の感じとは微妙にずれていることに。

倫理観や西洋では宗教上のタブー、そういうものを破る時、人は何を感じるのだろうか?妻が感じたのは、この常識や倫理の枠の外へ出るというある種の「ドキドキ・ときめき・解放感」にも似た感情だったんではないか?また、罪悪感にさいなまれる時、その感情をどう扱ってよいか、「まじめ」な人ほど対処法が解らないで、罪悪感を心の中から追い出す方法として、さらに泥沼に陥るって悪循環。

罪悪感を構成する、産まれた時から意識の底に刷り込まれた倫理観は、資本主義社会延命のための構造という、現代のフェミニズムの最先端の知識を持っていたら、こんなことにはならなかったろうに・・・。もうちょっと語りたいけど、ここから先は共通の言語をもつ相手にじゃないと、うまく話し合えないなぁ。フェミニズムを語るのに、結構いい題材になる気がする。

むかしむかし~映画の感想②

2002年ごろ書いていた映画の感想

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8人の女たち

主演・カトリーヌ・ドヌーブ他 2002年/ ベルリン国際映画祭銀熊賞(予告編はこちら
「金田一君!事件です」ってぇ、感じの状況設定。クリスマス・イヴ、大雪で外界から閉ざされた富豪の邸宅にその家にゆかりも因縁もありそうな8人の女がつどい、そこで一家の主が殺されているのを発見する。いったい犯人は誰か?

映画全盛期のオマージュというつくりは、美しくゴージャス。おもしろいのはミュージカル仕立で8人の女がそれぞれの生き方・キャラクターをを歌って踊って表現するところ。そして、8人の見事に違うキャラクターのすべてが私の中にも存在するとさえ感じる。

犯人は誰かは、まぁどうでも良くて、8人の女それぞれの秘密が暴かれていく過程がおもしろい。フェミニズムをちょびっとであれ、かじったものとしては、え~!!!って思って見ているんっすよ。どうしてこうもみんな「男」に振り回されてんだろうねぇ、ってさ。女同士のライバル意識や姑根性なんか捨てちゃえばぁ?振り回される男が問題なんだって気づかないかなぁ、って感じで。でも、ま、それも最後の最後に披露されるダンスで、こういうわけだったのねって納得しちゃう。

厳格なオールドミス役のイザベル・ユペールの歌が哀しい。彼女は別の出演映画「ピアニスト」でも共依存の母親からのがれられないオールドミスの役で、自らを絶望へ追い込む役を演じてあまりの痛々しさに泣けた。彼女の演じるオールドミスが、自分を縛っていたものに気づき、気づくことで解放されるとともに美しく変身していく姿に自分を重ねて見ちゃったりして・・・。

最後に、富豪の妹役、ファニー・アルダンに、私ぁ惚れました。鋭い美しさっていいなぁ。あんな目に見つめられたらどきどきするよねぇ ^_^; あこがれ?、憧れって「他者が持っているものを所有したいと欲すること」なんだってさ。私にああいう美しさがないので欲しがってるってぇことか・・・!

むかしむかし~映画の感想①

2002年ごろに書いていた映画の感想

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戦場のピアニスト / 主演・エイドリアン・ブロディ 2002年 
           /アカデミー賞主演男優賞他6部門.・カンヌ映画祭パルムドール
                             (予告編はこちら)
映画を見ながら、去年青森で聞いた辛淑玉の講演を思い出していた。戦争を国威国家を背負って見ていては解決しない、1人の人間としての視点をというメッセージを聴いていて感動したことを。この映画の紹介でも必ずふれられている、監督ポランスキーはホロコーストを生き延びたユダヤ人であるが、その視点に偏りはなく、ドイツ人にも良い人がいた、ポーランド人にも悪い奴はいた、と。辛淑玉の語る第2次世界大戦と同じ、平等に個の視点で冷静に事実を伝えてくれている。

私が映画を見た時期はイラクへアメリカ・イギリス軍が「解放」のため進行し、バグダッド陥落が伝えられたころだった。TV画面の見えないところで起こっていることが映画の中でリアルに映し出される。巧妙に悲惨な場面を報道しないTVの画面から、あの映画のような状況を読み取れる人がどれくらいいるのだろうか。メディアの読み方、メディアの裏側を感じ取れる感性を、せめてこの映画を見ることで、「今」この映画が上映されている意義を大切に活かして欲しいと思った。

夜の闇に紛れて「月光」が聴こえてくるシーンは、わすれられないシーンのうちのひとつ。「月光」を聴いて、心がふるえた。音楽の素養に乏しい私でもドイツ将校が奏でる「月光」はベートーヴェンの曲だろうと推測できるし、ドイツ将校に曲を弾けと命じられてシュピーマンが引いたのはショパンで、ショパンはポーランド人なんだろう、と。戦争のさなか、しかも敗戦が遠くない戦況の中「月光」を引くために夜出かけてくる将校の人間性が、何気ないカットで伝えられる。部下の出す書類に次々と目を通しサインするシーン・・・。

そしてポランスキーの偏りのない視点も、本当にさりげなくしかし印象的に語られる。ホロコーストを生き延びたヴァイオリン弾きが立場の一転したドイツ人捕虜に向かって罵倒したことを「悔やむ」、聞き逃してしまいそうな小さなせりふだけれど、間違いなく観客に届いているだろう。

アカデミー賞授賞式でのエイドリアン・ブロディのコメントはこの映画のあのシーンとつながっているんだと、映画を見ながら振り返っていた。「あなたの信じる神がどのような名であれ、神のご加護を」と。

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もうひとつの感想

主演の男優は実際にピアノを弾いている!洋画を見ていてよく同じような場面に出会う。ピアノを弾いている指先だけが別人だろうと思ってみていると画面がひいてきて、演じている本人だったりすること!よくパンフにピアノの特訓をしたとか書いてあるけど、特訓なんかであんなに豊かなピアノが弾けるようになるものなんだろうか?

元題が同じ別の映画「ピアニスト」でもそうだった。若い音楽家の役の役者が自分でピアノを弾いている。役のうえで、若い音楽家が自分のピアノの先生に「表情豊かな曲を弾く」とか、「曲の構想があ~だ、こ~だ」と言われる場面があった。

そこでの設定は、日本で言ったら芸大の音楽家ピアノコース(そんなのある?っていうかそんな感じの)の学生の役で、そんな学生が弾く曲がどんなレベルなのか、ピアノの解る人が映画を見たら違和感を感じないような演奏なんだろうなぁ。ってえことはそういうレベルに曲を弾けるって事だよね。

特訓でそういうレベルにたとえ1曲でもできるようになるって、ホンマかいな?!私も(も、なんて言っていいのか!)ピアノ習い始めてもう3年ちょっとになるのに、いまだに簡単な編曲のものしか弾けない。練習量が違うって言われたら終わりだけど、そんな量でカバーできるものなのか?ある程度の時間って必要なんじゃないのかって思う。あるいはピアノってものが日本よりもっと身近で、弾ける人も多いとか・・・。なんだかそういう場面に出会うたびに文化の差を感じるなぁ。

とにかく、ピアノの先生関係でこの映画を見た方!ぜひ本人の弾いている曲が、役に見劣り(聴き劣り?)しない程のものなのかどうか、教えてください。

むかしむかし~本の感想⑮

2002年~2004年ごろに書いていた本の感想

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家族狩り 1~5部 天童荒太 新潮社文庫 (¥476~¥667)
ついに茨城県でも起こってしまった家族をめぐる事件。自分にとっても身近な土浦と水戸の事件で、子どもたちの通う学校でも事件の関係者と近い人が多く、起こってしまった事件の波を感じないではいられない。

子どもによる家族惨殺事件の真相を探る5部作は、このような事件が起こったときに訳知り顔でコメントするTVの出演者よりずっとずっと真実に近いものを伝えているに違いない。閉ざされた家族と言う密室の中で、あるいは、社会の中で孤立した家族の中に何が起こっていて、その当事者たちはいったい何を感じているのか、これほどリアルに書いた作品は初めてではないだろうか。ある意味事件を追ったルポよりも事実に近い気がする。

肯定的に受け入れられない子どものどうしようもない行き場のない気持ちも、親たちの当惑も、何とかしたいと動く周りの人々の気持ちも、それぞれの思いがしみるように伝わってくる。登場人物の語る言葉一言一言がまるで自分が発した言葉のように思えるくらいリアルである。

それゆえ、読み進むのはしんどい。解るがゆえに、この先にあるのは闇だけのような気がしてきて、読み続けるのが辛くなる。それでも、第5部のタイトル「まだ遠い光」を求めて読み続ける、考え続けることが「まだ遠い光」に近づく唯一の方法だから。

むかしむかし~本の感想⑭

2002年~2004年ごろに書いていた本の感想

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考えることで楽になろう / 藤野美奈子 (協力=考えるプロ 西研) 
                  メディアファクトリー ¥1200
「悩むことと考えることは別のことである」って西研の別の本にあって、月並みだけど「目からうろこ」。今まで費やしたほとんどの時間は「悩んで」いただけで、問題解決に向けて考えていたわけではなかったんだなぁって、その時思った。

西研が漫画家藤野と組んで、考えるコツを教えてくださる。
①感情の中に動いているものを感じてみる。
②なるべく正直に、公平に!
③いったい何が「核心」なのかを、言葉でつめていく。
④どうすることが「私にとって」いちばんいいか、を考える。
⑤そのさい、私にできること/できないこと、を考えてみる。
⑥ゆっくりと気持ちが形をなしていくのを待つ、という手もある。

藤野が思考の過程を、すべて上手く言葉にしてあるので、それをたどっていくうちに、読み手も考えるレッスンが少しできるようになる、気がした。頭の中で、ぐるぐると考えのかけらが渦巻いているのままでは、本当は考えることにはならないんだなぁ。言葉にする、話し言葉でも、もちろん文字ならさらにいい、兎に角言葉にすることが、考えることには大切。

自分ではわかったような気がすることを人に説明しようとして、言葉に詰まるというか、上手く説明できないことってしょっちゅう。気になる言葉を書き取ることからはじめ、きちんと考えてみようって、改めて思った・・・のは、ほぼ1年前。ずっとコンテンツにあげたまま、ほったらかしにしてあったのも、それはそれで何かの必然のような理由が在ったのかもしれない。今年こそ、考えよう、そして楽になろう。

むかしむかし~本の感想⑬

2002年~2004年ごろに書いていた本の感想

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博士の愛した数式 小川洋子著 新潮社 ¥1500
事故の後遺症で、記憶が80分しか持たなくなってしまった「博士」とそこへ派遣された家政婦、そしていつしか博士になついてしまい博士から「ルート」と呼ばれる家政婦の子ども、その3人が過ごす80分の連なりとしての時間。

人間は記憶の総体として今在るのだけれど、その記憶がない、思い出が作れないということは、不幸なのだろうか?この物語を読んでいる限り、そうとはいえないと思った。3人が繰り返す80分は永遠に続く「今」でもある。記憶の限界のかなたにある過去にとらわれることなく、今を穏やかに楽しく過ごせるとしたら、ある意味なんて幸せなことだろうとさえ思う。

「過去はきれいさっぱり水に流して」なんてよく耳にするけれど、流したはずがどろどろと渦まいてよどんでいたりするほうが多い。忘れられたらどんなに楽になるかと思う過去の出来事だってたくさんあるに違いない。それほど記憶というものに振り回されているのが人間かも知れない。過去を引きずることなく、今を大切に生きることが、生きることのすべてという、簡単だけれどもなかななできない生き方を隠喩のように物語った本。

読み終えて、なんともいえないすがすがしさが残る。

むかしむかし~本の感想⑫

2002年~2004年ごろに書いていた本の感想

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グロテスク / 桐野夏生 文芸春秋 ¥1900 
佐野眞一の「東電OL殺人事件」(新潮社)はノンフィクション。同じ題材を元にしたと思える「グロテスク」はノンフィクションより真実を伝えていると思う。文学という芸術はノンフィクションという自然を越えるんですね。(あらすじはこちら:Amazon)

絶世の美女ユリ子・不細工なユリ子の姉・不美人で努力家和恵・そこそこ美人で頭脳明晰ミツルの4人の女性が登場人物。物語はユリ子の姉の日記の形で進められるが、後半4人のそれぞれの手記のような物語が語られるにつれて、姉は真実の語り手ではないことがわかってくる。

和恵の人生が痛々しい。プライドが高く尊大な父のファザコンで、しか~し自身は女だから、所詮父の望む姿にはなりえない、だって父は男、和恵は女だから。父の価値観は「努力は成功への道」と信じて疑わなかった戦後の高度成長期のもの、アメリカの薄っぺらい自己実現思想をそのまんまいただいたものだったのだろうけど、その価値観のままに努力を重ねる和恵の姿はこっけいを通りこして、哀れに感じる。

世の中は理不尽、努力で越えられないものもある、というより越えられないものの方が大きい。そのことを理解できない、いや理解することは「負け」になるので、勝利を目指して逆に崩壊していく和恵はすばらしくリアル。皮膚のすぐそばまで和恵の輪郭が近づいているように思える。

また、ユリ子の姉の屈折した性格は、読んでいる間中、私にとっては一番身近に思えたものだった。悪意のこもった策略で人を貶める、こういう欲求が自分の奥底に善人の皮をかぶって潜んでいることを認めるまでは、長く苦しい時間が必要だったなぁ、なんて過ぎた日々を振り返ったりして・・・(^_^;)。

男女平等思想なんて絵に書いたモチ。男女のほかにも差別なんてそこらじゅうにあふれている。美しい人とそうでない人。頭のいい人とそうでない人。黄色人種と白人。金持ちとそうでない人。中年女とギャル。人々のいるところ、すべての関係の中に差別があり、自分はどんな権力(美?金?年齢?etc)を持っているかの引っ張り合いパワーゲームが発生する。

般若心経…四苦八苦の世界に生きているのね、私たち。

むかしむかし~本の感想⑪

2002年~2004年ごろに書いていた本の感想

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できるかなV3 / 西原理恵子 扶桑社 ¥952 
西原さんのできるかなシリーズは欠かさず読んでるんだけど、今回はさすがにそのヴァージョンアップ具合に,恐れ入りました。だって「脱税できるかな」なんだもの。そこまでやるかぁって、腹が据わってない庶民の私のまじめでいい子部分が、拒否感を感じさせるほどの、わがままぶり。それにしても、税務署って値切ると税金まけてくれるんだぁ・・・。

今回のトライというか、できるかな挑戦は、面白いのとぜ~んぜん面白くないのと、くっきりすっきり分かれてしまった。脱税バトルとキャバレーのホステスできるかなは面白かったけど、富士山のぼりや熱気球編はおもろくもなんともない。

富士山登山編では唯一面白かったのが、西原さんの体脂肪率40%で、「私の4割が、私じゃない」ってつぶやくところ。40%は行かなくても、細目とは言いがたい自分を振り返って、「私も〇割は、私じゃなくて脂肪なんだ」って思った・・・。正月のだらだら生活の中で読んだので、一念発起のダイエット敢行を思ったもんね。(何度目だろう・・・)

むかしむかし~本の感想⑩

2002年から2004年ごろに書いていた本の感想

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誰か / 宮部みゆき 実業之日本社 ¥1524 
模倣犯とブレイブ・ストーリーで宮部みゆきにはさようならしたつもりだったんだけど、気持ちにゆとりがなくて、でも文字を見ていたいときなんかには、宮部のような物語が軽くていいんだよね。文句言いながら、読んじゃった。

財閥の会長の個人運転手が自転車のひき逃げで亡くなった。その二人の娘が犯人を捜すために父の思い出をつづった本を出版したいと言い出して…。財閥の娘婿で元出版社勤務の三郎にそのおはちが回ってきて、探っていくうちに見えてくる人生模様。

二人の姉妹が、姉は妹を両親の「一番星として愛されていた」とうらみ、妹は、両親が姉ばかりを頼りにするとねたんでいた、そういう育ち方って、きっとどこでもあることなんだろう。秘密を抱えてしまった時、家族ってかなり危険な人間関係になるんだってのも、その通り。その通りだとは思うけど…すらすらと一気に読めてしまう語り口の上手さはもうけなしようもないけど、それでも、前の2作も同じように、ラストというか決着のつけ方になんともやりきれなさしか残らない。人間模様を書いて、切なくなるならそれはそれでいいんだけど、切ないんではないんだよなぁ、読後感が。

宮部って人間が嫌いなんだろうか?もうちょっと、ほんのちょっとでもいいから、明るいきざしみたいなのを残してエンディングになってもらいたいなぁ。

なぞの解決の時、お互いを恨みながら育ってきた姉妹の姉に向かって三郎が言うせりふが引っかかる。ひどい男に二人して騙されて振り回されている姉妹の姉に、父親だったら一番先にその男をぶん殴る、と言っているんだけど、そういうことじゃないんだなぁ。親の愛が欲しくて、親の愛を独占したくて、お互いを傷つけあってる姉妹には、親に愛されているって実感がないんだ。父親らしく、ひどい男をぶん殴っても、そんなことで愛情が伝わる訳じゃない。そんなことが慰めになると思って言ってる三郎がずいぶんと薄っぺらに感じてしまうせりふで、そのせりふが物語の結末を飾るように書かれてるから、全体が薄っぺらい印象になっちゃうのね。同じ家族を描くんでも、重松清のほうが取材が丁寧って感じちゃう。

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